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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義賢

源義賢まとめ

・為義の次男。次期棟梁として嘱望されつつ、京を中心に活動する。
・が、父の遺伝で出世できない。
・大蔵合戦にて甥・義平に攻められ、討ち取られる。

基本データ

生年:1126年?
没年:1155年(享年29歳)

主な家族

父:源為義
兄弟:義朝(長兄)、義広(長弟)、頼賢(次弟)、為朝(六弟)、行家(八弟)他
子:仲家(長男)、義仲(次男

人間関係

源義朝:俺が嫡男だもん!俺のが官位上だったんだもん!!
源義平:兄貴がいない関東なんてちょろいぜ→なんかやばいガキがいるゥ!?
源頼賢:可愛い弟。我が息子。
藤原頼長:アッー

京で育つ為義の後継者

長男である兄・義朝が無官のまま東国に下向したのに対し、
3歳下の義賢は父・為義の側で育てられ、東宮帯刀先生の官職を与えられる。
これは「とうぐうたちはきのせんじょう」と読み、皇太子を護衛する職を指す。
実は義朝を差し置いて後継者の立場にあったのではないかともされる。

父の欠点を受け継ぐ

将来を嘱望された義賢だったが、為義の遺伝子が効いたのだろうか。
犯罪者を匿うという、これまた父同様の地雷を踏んで官位を剥奪されている。
その後は能登で年貢未納事件を起こし、やっぱり罷免となった。

藤原頼長のおホモダチ

父同様、義賢も出世できないまま藤原摂関家に仕えた。
藤原氏の中でも苛烈な性格で知られる「悪左府」こと藤原頼長
彼の残した日記「台記」には、義賢が頼長の男色相手であったことが記されている。
イケメンだったのだろうか。

関東へ

兄・義朝が京に帰還して父と対立するようになると、
義賢は父の命を受けて、北関東へと下向。南関東に根付く兄の勢力を牽制にかかった。
彼は大蔵(今の埼玉県比企市)に拠点を据えると、着実に勢力を伸ばしていく。

……ように見えた。

悪源太襲来からの死

そんな義賢の動きに対し、鎌倉に残っていた義朝の長男・義平が動いた。
当時弱冠15歳ながら、義平は大蔵館を急襲。
義賢とその舅・秩父重隆を討ち取ってしまったのである。

大蔵合戦と呼ばれるこの事件は、
義朝と密接な関係にあった武蔵守・藤原信頼によって握り潰され、
都ではほとんど話題にならなかったという。
そして、甥・義平はこの合戦を機に「鎌倉悪源太」と呼ばれ、勇名を馳せることとなる。

この通り、兄・義朝とは不仲だった義賢だが、
為義の四男となる弟・頼賢とはとても仲がよく、父子の盟約を交わしたという。
義賢の死後。頼賢はその仇を討とうと信濃に下向し、
義朝と一色触発の危機に至るも、直前でこれを回避している。

義賢の息子たち

義賢の戦死後、京にいた長男・仲家は源頼政に保護され、その養子となる。
後に頼政以仁王を奉じて平家に反旗を翻した際は、それに従い討ち死にしたという。

そして、当時2歳だった次男・駒王丸は家臣の手で大蔵館から命からがら落ち延びる。
彼は後に木曽義仲と名乗り、義朝の息子たちと激闘を繰り広げることとなる。

源義朝

人物(清和源氏)

源義朝まとめ

・為義の長男。少年期に関東に下向したことから、父や兄弟とは疎遠になる。
保元の乱では父や兄弟と対立。勝利後、泣く泣くこれを斬る。
・その後、保元の乱で共に戦った平清盛と対立。平治の乱にて破れ、非業の死を遂げる。

基本データ

生年:1123年
没年:1160年(享年37歳)

主な家族

父:源為義
兄弟:義賢(長弟)、義広(次弟)、頼賢(三弟)、為朝(七弟)、行家(九弟)他
子:義平(長男)、朝長(次男)、頼朝(三男)、範頼(六男)、全成(七男)義経(九男)他

人間関係

源為義:なんで親父はダメなの?なんで俺の邪魔すんの?なんで親父は俺に斬られてしまうん?
源為朝:噂通りのやばい弟。流石の俺も引くレベル。
平清盛:永遠のライバル…と言いたいが、流石にちょっとだけ無理があるかもしれない。
信西:クソインテリ坊主。絶許。
藤原信頼:史上最強の無能。

源氏の御曹司、関東の大地で荒ぶる

武士と言えば河内源氏!……という時代はとうの昔。
一族の内紛と父・為義の無能さによって、すっかり落ちぶれた頃に源義朝は誕生した。

長男でありながら義朝が父と過ごした時期は短く、
少年期から無官のまま関東へと下向させられている。
義賢以降の弟たちはみな京で過ごす中、義朝は上総氏など在地豪族の庇護下で成長した。

義賢が割と早く帯刀先生に任じられていることを踏まえると、
当初、義朝は後継者として扱われなかった可能性も高い。

元祖湘南モテ男

関東に降り立った義朝は、荘園における豪族間の争いに介入しながら、
三浦氏、波多野氏、大庭氏といった地元豪族を傘下に収めていった。
中でも長男・義平の母は三浦氏、次男・朝長の母は波多野氏とされ、
積極的に婚姻関係を結んでいたことが窺われる。プレイボーイですね。

こうして義朝は相模国を中心に一大勢力を築き上げた。
一方、以前より関東に根付いていた他の源氏こと、
源義国との競合関係を生み出すこととなる。

荒加賀入道・義国との衝突&和解

義国は義朝にとって、祖父・義親の弟=大叔父にあたり、
足利(茨城県)に本拠を構えていた。
血の気が多い性格で、少年期は自らの叔父と常陸国を巡って戦っている。

そんなめんどくさいジジイと一触即発の事態となった義朝。
しかし、義国の下にいた河内経国が両者を仲介して事なきを得た。
経国は義国の甥であり、義朝にとっては父の従兄弟にあたる。

以降、義国とは同盟を結び、その子・義康とは相婿の関係になるなど、
南関東において盤石の地盤を築いた末、20代前半で京に帰還することとなる。

源氏の再興と一族の相剋

戻ってきた義朝は、妻・由良御前(三男・頼朝の母)のツテで鳥羽院に仕えた。
妻の実家が院近臣であることを背景に、義朝は順調な出世を重ねていく。
31歳の時にはついに従五位下・下野守に任じられ、河内源氏悲願の受領職へと返り咲いた。

しかし、この出世には鳥羽院による摂関家への牽制という狙いがあり、
摂関家を後ろ盾とする父・為義らとの関係悪化も意味した。

大蔵合戦

義朝の抜擢を父・為義は歓迎しなかった。
それどころか弟・義賢を関東に派遣し、義朝の勢力を削ぎにかかったのである。
が。関東に残っていた義朝の長男・義平が、
義賢の館に攻め入って華麗にこれを討ち取ってしまう。親族殺しは源氏のお家芸ですね。
為義のイヤガラセはあっさりと終わりを告げた。

大蔵合戦と呼ばれるこの戦は、京では全く話題にならなかった。
別に田舎の戦だから無視された、というわけではない。
当時、アンチ摂関家だった藤原信頼が武蔵守を務めていた為、
これをもみ消し or 黙認していたのではないかという説がある。

保元の乱

河内源氏では義朝と為義らが対立する一方、
伊勢平氏や藤原摂関家天皇家すらも身内同士の勢力争いが激化していた。
やがて、敵を作りすぎて追い詰められた藤原頼長崇徳上皇を担いで挙兵する。
義朝33歳の時である。

父や弟たちが崇徳上皇方で参戦する中、
一人、後白河天皇方についた義朝は、平清盛源義康と共に200騎を率いて出陣した。
義朝は作戦会議の場で先制攻撃を主張。迷う藤原忠通を押し切ったという。

兵力では圧倒的に優位な天皇方だったが、
開戦直後は弟・為朝の剛弓により苦戦を強いられる。
保元物語」では乱戦の中、義朝が為朝に言い負かされた挙句、
弓で散々狙撃されるなど、乱暴者の弟に手を焼く様子が描かれている。

戦況の膠着を打開すべく義朝はさらに火攻めを進言。
これにより崇徳上皇方は総崩れとなり敗走する。
藤原頼長は首に重傷を負って死亡し、崇徳上皇も出頭した。

残されたのは、ぼっちの棟梁

義朝の戦功は高く評価された。
左馬頭に任じられ、内昇殿まで許されるという破格の待遇である。
ライバルとされる平清盛に比べればまだまだ大きな差があるものの、
清盛が幼少期から高い位に就いていたのに対し、
義朝は京に戻るまで無官だったことを考えれば、十分すぎる出世だった。

しかし、義朝の下に出頭した父や弟たちへの処分は過酷なものだった。

薬子の変以来、400年ぶりに死刑が復活し、
崇徳上皇側に加担した武士はことごとく死罪が言い渡されたのである。

義朝は自らの戦功と引き換えに親兄弟(※逃亡中の為朝除く)の助命を嘆願するも、
彼らを謀反人と断じた朝廷に受け入れられることはなかった。
かくして義朝は泣く泣く船岡山にて父や兄弟たちを斬首した。

死罪の復活には、当代一の学者とされた信西が関わっていた。
摂関家の弱体化を推し進める信西は、その手駒である為義らの排除を企んだのである。
義朝が信西に強い遺恨を抱くのは当然のことだった。

平治の乱

保元の乱後。権力を握ったのはその信西だった。
彼は雅仁親王こと後白河天皇の教育係であり、
一時は出世の見込めない自らの出自に絶望して出家したものの、
なんだかんだで政敵の排除に成功しちゃった腹黒学者である。

信西後白河院の信任下で新しい政策を次々と打ち上げ、
要職に自分の息子たちを就けた。
しかし、こうした急進的な動きが反発を食らうのも世の常。
当時の朝廷は後白河院政派と二条親政派に分かれていたが、
なんとその両方に反信西の動きが芽生え、結託してしまったのである。

信西打倒クーデター

義朝は院政派&アンチ信西の筆頭・藤原信頼と手を組んだ。
信頼は院近臣の中でも武士の力に着目し、異母兄を陸奥守&鎮守府将軍として派遣するなど、
東国の武士勢力に対して強い影響力を誇っていた。
又、信頼自身も武蔵守時代に義朝を支援しており(※大蔵合戦)、
朝廷における義朝の出世にも大きく寄与している。

信西の排除には、京最大の軍事貴族平清盛が目障りだった。
信西平氏と密接な関係を築き、その武力をもって自らの改革を推し進めていた。
清盛自身は政治抗争に対して中立の立場を示していたが、迂闊な挙兵は憚られた。

そこで信頼は清盛が熊野詣で京を留守にした隙を狙う。
義朝の他、源光保、源頼政といった武士たちを引き込み、三条殿を襲撃させたのである。
信西は逃亡するも、その後潜伏がバレて殺害された。

清盛の帰還

いざ信西を倒したのはよいが、その後が問題だった。
政権奪取に成功した信頼は独断専行が高じて反感を買いつつあったし、
信西派は元々院政派と親政派によって構成されていたから、
共通の敵がいなくなれば空中分解するのは当然のことである。

そんな中、義朝が最も懸念していたのは清盛の存在である。
集めた兵はクーデターを起こす程度の小規模な人数に過ぎない。
しかし信頼は自らの嫡男と清盛の娘が婚姻関係にあることを理由に、義朝の不安を笑った。
信西が排除された以上、清盛も味方になると踏んでいたのだろう。

京に帰還した清盛は、信頼に名簿を差し出して恭順の意を示し、
婿に迎えていた信頼の嫡男を送り返した。
信頼はこれを素直に喜んだが、
義朝は警護の郎党たちがやたら猛者揃いであったことを警戒したという。

義朝の危惧は正しかった。
水面下で反信頼派の貴族たちが清盛と連携を取り、
二条天皇六波羅にある清盛の館に移動させる計画を進めていたのである。

馬鹿な上司を持つ不幸

計画はスムーズに行われた。
内裏を出た二条天皇六波羅に入り、その報せを聞いた後白河法皇仁和寺に脱出した。
その話を聞いた摂関家含む公卿たちはみな六波羅に集まっていく。
帝という大義名分を失った義朝らは一転して賊軍となった。
爆ギレした義朝は信頼を「日本一の不覚人」と罵倒している。

この状況に源頼政をはじめ多くの武士たちが信頼を見切る中、
引くに引けない義朝は信頼方として渋々出陣した。

内裏を巻き込みたくない清盛の狙いにより、六波羅付近が戦場となった。
引き続き離反者を出すなど、グダグダな信頼方において義朝は激闘を繰り広げるも、
官軍の圧倒的兵力を前に敗走を余儀なくされる。

裏切りと死

その後、京を落ち延びた義朝は一族・家臣を引き連れて東海道を下った。
長男・義平は途中から別行動を取り、京に潜伏して清盛暗殺を目論むも失敗する。
次男・朝長は落ち武者狩りの中で深手を負い、死亡。
三男・頼朝は一行からはぐれて捕縛される。本来処刑されるところを、
清盛の母・池禅尼が助命を嘆願したことから伊豆への配流に留められた。

義朝は馬を失い、裸足で尾張国(愛知県)まで落ち延びると、
乳兄弟の鎌田正清と共に正清の舅・長田忠致の元に身を寄せた。
年来の家人ながら平家の恩賞に目がくらんだ忠致は、風呂場にて義朝を騙し討ちにする。
保元の乱からわずか3年後のことである。

義朝の墓所野間大坊という寺にあり、
今際の際に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされることから、
今もたくさんの木太刀が供えられているという。

義朝の死をもって、河内源氏は中央から姿を消した。
世は平家全盛の時代を迎える。

源義国

人物(清和源氏)

源義国まとめ

・義家の四男。義忠の同母弟だが素行が悪かった為、後継者選定からは外れる。
・通称「荒加賀入道」。常陸に進出し、叔父・義光と激闘を繰り広げる。
室町時代に名を上げた足利氏や新田氏の祖。

基本データ

生年:1091年
没年:1155年(享年64歳)

主な家族

父:源義家
兄弟:義親(次兄)、義忠(三兄)、他
子:義重(長男)、義康(次男)、他

人間関係

源義光:陰湿なクソ爺、常陸から追い出しちゃおうぜ→無理でした。
源義朝:義親兄の孫。縄張りを荒らしに来たかと思いきや、なんだかんだで同盟関係に。
河内経国:暗殺された義忠兄の子。しゃぁない、面倒見てやるか→義朝との仲介役に。

平安時代の非行少年、関東に根付く

源義家の四男として生まれる。
次兄・義親が九州で反乱を起こした後は、同母兄・義忠と共に後継者と目されるものの、
義国もまた素行が悪く、後継者選定からは早々に外されてしまう。

武士とは言え、大なり小なり朝廷や貴族社会と関わりを持たねばならない以上、
どれだけ強くとも、乱行が酷くては到底棟梁は務められないということだろう。

常陸合戦からの足利荘成立

はじめは上総国勢力を築くものの、後に叔父・義光が勢力を張る常陸へと進出。
合戦に及んだ末に勅勘を蒙り、父・義家に捕縛命令が下りている。
当時、義国は15歳。叔父・義光は61歳。

常陸勢力争いでは敗れるものの、
下野国に足利荘を成立させて同地に勢力を築いていく。
足利は下野・上野・武蔵へのアクセスもよく、戦略的にも重要な土地だった。
ここと近隣にある新田荘は義国からその息子・義重&義康に伝えられ、
南北朝時代へと続く名門の礎となる。

義朝との対立、相剋の回避

為義の長男・義朝が関東に下向して相模国勢力圏とすると、
下野国の義国と競合関係に陥った。これを調停したのが、河内経国である。

経国は兄・義忠の忘れ形見であり、義国にとっては甥にあたる。
義忠が闘死した後は為義に邸を追われ、母方の叔父・平忠盛に育てられていた。
そんな状況を不憫に思ったのだろうか。
義国は自らが上洛した際に彼の烏帽子親を務めるなど、よく面倒を見ていた。

ここに義国と義朝という二つの源氏が争うことを憂いた経国は、両者の調停に奔走する。
その甲斐あって両者は同盟を結ぶことに成功した。
さらに義国の次男・義康と義朝は相婿になるなど、親密な関係を築いている。

室町時代に続く源氏の血脈

長男・義重は新田荘を継ぎ、新田氏の祖となった。
後に新田氏は南北朝時代新田義貞を輩出する。

次男・義康は足利庄を継ぎ、足利氏の祖となった。
こちらは室町幕府の開祖となる足利尊氏を輩出する。

当の義国本人だが、晩年になっても気性の荒さは相変わらずだった。
60歳近くになっても徳大寺実能の屋敷を焼き払い、勅勘を蒙っている。
それでも兄・義親のように討伐命令が下りないだけ、まだ可愛い部類だろうか。
さしずめ、永遠の非行少年である。

源為義

人物(清和源氏)

源為義まとめ

・若くして源氏の棟梁となるも、内部抗争によって河内源氏は既にボロボロの有様。
・宮廷では素行の悪さから昇進できない。関東に向かった長男・義朝とは次第に対立する。
保元の乱において敗北。義朝の助命嘆願も聞き入れられず、処刑される。

基本データ

生年:1096年
没年:1156年(享年:60歳)

主な家族

父:源義親
子:義朝(長男)、義賢(次男)、頼賢(四男)、為朝(八男)、行家(十男)他

人間関係

源義朝:微妙な距離の長男。だけど義朝なら…義朝ならきっとなんとかしてくれる。
源義賢:可愛い次男。でも頼りないんだ……。
源為朝:源氏の最終兵器。我が息子ながら手に負えない。もぅ、無理。
源義光:無責任ジジイ。
平忠盛:父の仇・正盛の息子。ライバルと言いたいが、相手にされてない感も。
藤原頼長摂関家の為ならなんでもしちゃう!えっへっへ(揉み手)

落ちぶれる源氏

叔父・義忠の暗殺後。祖父・義家の遺言に従い、河内源氏の棟梁となる。
しかし彼はまだ14歳で有力な後ろ盾もない。
父・義親は反乱を起こして討伐され、他の異母兄弟は遠く対馬で暮らしている。
そんな状況から彼のハードモードな人生は始まる。

義忠暗殺事件の主犯として疑われたのは、大叔父・義綱だった。
そこで別の大叔父・義光の後援により、これを討ち果たすものの、
後に義綱は冤罪であり、真犯人が義光だったことが露見してしまう。
結果、義光は無責任にも常陸へと引きこもり、
京に一人残された為義は源氏再興のため、孤軍奮闘を強いられることとなる。

出世できない男

為義が中央政界で上手く立ち回れたかと言うと凄まじく微妙だった。
14歳のデビュー時は、期待のホープとして左衛門少尉に任じられたものの、
それから目立った功績を上げることもなく、失策続きの日々を過ごす。
結果、ろくな官職も得られず、永遠の左衛門少尉&検非違使止まり。
その左衛門少尉すら、解官同然の辞任によって手放している。

一方、伊勢平氏の飛躍は目覚ましく、
正盛の後を継いで当主となった平忠盛は、院の信頼を得て受領を歴任している。
河内源氏の威光は地に落ちた。

義朝と義賢

中央で苦戦する為義を横目に、
長男・義朝は京を離れて関東へ向かい、相模国近辺に勢力を張った。
彼は上総御曹司と呼ばれ、三浦氏や波多野氏といった在地豪族と姻戚関係を結んでいる。

一方、次男・義賢以下の息子たちは京にて官吏の道を歩んでいく。
少年時代に東国へ下った義朝が無官のままだったのに対し、
義賢は東宮帯刀先生という東宮警護の任に就いた。

この頃、為義にとっての後継者は義朝<義賢だったらしい。
ところが義賢も殺人事件に関与するという地雷を踏んだことから、
これを罷免されてしまう。ダメなところも親父そっくりですね。

院がダメなら摂関家に媚びよう

最初の頃は院に仕えた為義だったが、
重ねた失態のお陰で見事に信頼を失ってしまった。
そこで目をつけたのが義家以前に懇意としていた摂関家である。

以降、為義は摂関家の私兵として活動し、ここでは堅実に勤め上げた。
そのことが評価されたのか、10年ぶりに左衛門大尉&検非違使へと還任している。

義朝の帰還と家族喧嘩のはじまり

この頃、義朝が京に帰って来た。
彼は妻の実家・熱田大宮司家のツテで鳥羽法皇に仕えたことから、
摂関家に近い為義とは親子でありながら競合関係に陥ってしまう。

当時の摂関家当主(藤氏長者と言う)は藤原忠通だったが、
忠通はその父・忠実や弟・頼長と不和だった。
為義は忠実の命により、忠通から藤氏長者の証となる東三条殿と朱器台盤を強奪した。

忠通を事実上廃嫡し、頼長を藤氏長者に据えたこの事件は、
後に為義の運命を決定づける一因となる。

為義派と義朝派の対立

検非違使に復帰した為義だが、出世できないのは相変わらずだった。
一方、義朝は父を飛び越え下野守に任じられた。源氏待望の受領職である。

そんな長男の出世を素直には喜べなかったのだろう。
為義は東国における彼の勢力を削ぐため、義賢を上野国へと派遣する。
さらに京では為義の四男・頼賢と、義朝と同盟関係にある源義康が争った。

しかし状況は悪化の一途を辿る。
東国に派遣した義賢は義朝の長男・義平によって討たれ、
わずか2歳の遺児・駒王丸は命からがら落ち延びた。
この少年は後に木曽義仲と呼ばれる猛将となるが、それはまた別の話。

次男・義賢の死に続き、八男・為朝が九州を平らげる程の大暴れをした末、
為義は父としてその責任を問われ、解官されてしまう。
後継者と目していた四男・頼賢も春日社より訴えられて解官された。

保元の乱

源氏における為義派の勢力が削がれていったのは、
為義の後ろ盾となっていた藤原忠実・頼長父子への圧力も一因とされる。
院周辺では以前為義に襲われた藤原忠通信西、美福門院らが結託して、
忠実・頼長の追い落としにかかっていた。

平安末期のお家騒動

源氏のみならず、よその家でもお家騒動が勃発していた。
伊勢平氏では平清盛(甥)VS忠正(叔父)。
藤原摂関家では藤原忠通(兄)VS藤原忠実(父)&頼長(弟)。
天皇家では後白河天皇(弟)と崇徳上皇(兄)の間に確執が生じている。

そんな中、治天の君として君臨した鳥羽法皇が亡くなり、
上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流れた。
この左府とは藤原頼長のことを指す。
要するに頼長と崇徳上皇が結託して、謀反を起こすのではないかという疑いである。

この風聞を受け、後白河天皇は様々な勅命を発した。
義朝は藤原頼長の邸宅である東三条殿へと押し入り、これを没官する。
追い詰められた頼長は、脱出した崇徳上皇と結託して兵を上げる他なくなり、
為義と義朝以外の息子たちは、頼長に従い上皇方として参戦することとなる。

為朝以外はいいとこなし

開幕の時点で天皇方と上皇方の間には動員兵力で差がついていた。

天皇方には源義朝平清盛といった源氏・平氏の主力が揃っていたのに対し、
上皇方に集った為義や平忠正などの武士は藤原氏の私兵にすぎなかった。

そんな中でも、八男・為朝の強弓は清盛&義朝の軍に大打撃を与え、
一時は義朝を撤退させている。

業を煮やした天皇方は義朝の献策により火攻めを敢行。
これにより上皇方は総崩れとなり、為義一族は投降した。

悲劇の戦後処理

かくして、保元の乱天皇方の勝利に終わる。
しかし問題はその戦後処理だった。

400年前に起きた薬子の変以来、公的な死刑というものはなかった。
しかし院近臣の信西は死刑の復活を決定する。
義朝は自らの戦功と引き換えに父や弟たちの助命を嘆願するも、
為義とその子らは斬首となった。無念。

唯一、為朝だけはその武勇を惜しまれ、伊豆大島へと流されている。

実は子沢山?

出世には終生恵まれなかった為義だが、子には恵まれた。
諸説あるが、その数は30人とも40人とも言われる。
勿論、その全てが成人したわけではないし、
成人した男子の多くは処刑もしくは戦死している。戦闘民族・河内源氏は業が深い。

源義親

人物(清和源氏)

源義親まとめ

・義家の次男。やんちゃすぎるあまり、後継者からは早々に外されている。
・武勇に秀で、通称「悪対馬守」と呼ばれる。九州で乱暴狼藉を働きまくった。
平正盛にあっさり討伐される。四男・為義は源氏の棟梁に。

基本データ

生年:不明
没年:1108年

主な家族

父:源義家
兄弟:義忠(長弟)、義国(次弟)
子:義信(長男)、為義(四男)

人間関係

源義家:ヤダヤダ!略奪やめるのヤダヤダ!
平正盛:お前が討ったの、あれ偽物な。多分。

「悪」の呼び名がつく、源氏の乱暴

義家の長男・義宗は早世しており、次男の義親が嫡男となる。
義親は父譲りの剛勇を誇り、「悪対馬守」と呼ばれた程の猛者だった。

当時の「悪」という言葉に善悪の意味はなく、
今で言うところの「強い者」というニュアンスで使われていた。
似たような事例として、源義平の異名「悪源太」などが有名である。

尤も、義親は強いだけでなく素行も酷かった。
「悪い対馬守」と解釈しても、そこまで違和感はなかったりする。
そんな事情から、義家は三男・義忠を後継者に考えた。

義親追討令

義親は九州で略奪や殺人を働いたことから、朝廷より問題視された。
当初義家は郎党の藤原資道を派遣して、召還・説得を試みるものの、これに失敗。
資道は説得どころか義親側について官吏を殺害する有様だった。

朝廷は義親を出雲国へ配流とするが、義親はこれすらも従わず、
出雲で更に狼藉の数々を重ねた。

もはや義親に弁護の余地はなく、ついに父・義家へと追討令が下される。
しかし義家はその直後に病死してしまう。

院の陰謀

義親に関する一連のトラブルは、
父・義家の権勢を恐れた白河院の嫌がらせも一因だったと言われる。

河内国を本拠とし、代々東国で活躍してきた源氏にとって、
西国である対馬守は勝手のわからないものだっただろうし、
義親の乱行を訴えた大江匡房は院の近臣でもあった。

平正盛による追討?

義家に代わって義親討伐を命じられたのは、
当時勢力を伸ばしていた伊勢平氏の棟梁・平正盛だった。
彼は清盛の祖父にあたるが、それまで目立った武功は立てていない。

ところが12月に討伐を命じられた正盛は、
翌年の1月には討ち取ったと報告した。
院はこれを喜んだが、この武功を疑う者も多かったらしい。
密かに義親は生きているのではないか、という噂が流れた。

かくして1130年ごろ、義親討伐から20年近く経つまで、
偽の義親が各地で出没するという事態が発生する。

量産される偽義親

偽義親は全部で4人いる。
越後に現れた義親は斬首された後、身元不明のままうやむやになった。
次に常陸に現れた義親は源頼政の父・仲政が取り逃がし、5年かけて捉えるも、
結局は偽物ということで梟首された。

白河法皇の死後、藤原忠実の鴨院邸に義親が匿われたという風聞が流れた。
そこに大津から別の義親が入京し、義親が2人いるという事態となった。
結果、鴨院義親と大津義親は郎党を率いて争い、大津義親が殺された。

生き残った鴨院義親もその後何者かに襲撃され、討ち取られている。
狼藉以外の事績が残らない義親だが、その武勇が本物だったのは間違いない。

義親の子と源氏の後継者

義親には多くの子がいた。
長男・義信は対馬太郎を名乗り、従四位下・左兵衛佐まで昇進している。
他の兄弟も対馬次郎、対馬三郎……と名乗っているが、四男・為義だけは別枠だった。
というのは、義家の遺言により、義忠の後継として指名されたからである。

義家にとって義忠はあくまで源氏嫡流における通過点であり、
本命は義親流に、と思っていたのだろうか。

源義光

人物(清和源氏)

源義光まとめ

・義家と仲良し。通称、新羅三郎。
・戦国時代に活躍する甲斐武田氏常陸佐竹氏、南部氏の祖。
・義家死後に棟梁の座へ野心を抱く。甥・義忠と兄・義綱を排除するも、陰謀は失敗に終わる。

基本データ

生年:1045年
没年:1127年(享年:82歳)

主な家族

父:源頼義
兄弟:義家(長兄)、義綱(次兄)、快誉(異母弟)他
子:義業(嫡男)、義清(三男)、他

人間関係

源義家:歳は離れているけど、仲良しの長兄。
源義綱:長兄と微妙な関係の次兄。
源義忠:……。
源義国:俺の領地を踏み荒らすクソガキ。
平成幹:お前はもう用済みだ。
藤原季方:お前も本当に上手いことやってくれたよ。
快誉:どうして陰謀はバレてしまうん?

義家と親しい弟

義家、義綱、義光は同母兄弟にあたる。
6歳年上の長兄・義家のことを、義光はかなり慕っていたらしい。
後三年の役においては、義家の苦戦を知ると官位を返上して助けにいった。
義家は弟の情に感動したのか、父・頼義が生き返ったようだと涙したとある。
ちなみに義家と不仲だった次兄・義綱は参陣していない。

戦後、義光は刑部丞、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔まで出世した。
また、常陸平氏から妻を娶り、同地において勢力を伸ばしていく。
戦国時代に活躍する常陸の佐竹氏、甲斐の武田氏などは義光の子孫にあたる。

仁義なき常陸

義家の四男・義国が常陸への進出を目論むと、これと合戦に及び勝利する。
しかしこの抗争で朝廷の機嫌を損ねてしまい、義国共々勅勘を蒙ってしまう。
当時、義光60歳。義国はなんと15歳。
茨城県でヤクザの大ボスと若手のヤンキーが殴り合ったようなものである。

河内源氏に関するトラブルは続く。
義家の次男・義親が九州で謀反を起こし、朝廷が討伐を命じた矢先。
ついに源氏のドン・義家が病没した。

源義忠暗殺事件とその黒幕

義家が亡くなると、その後を三男・義忠(義国の同母兄)が継いだ。
義家ほどの武威は無かったが、白河院や新興勢力伊勢平氏と協調姿勢を取ることで
これまでの河内源氏とは異なる形で勢力の安定を図っていた。
武闘派ヤクザが代替わりしてインテリヤクザになったようなものである。

その様子を見た義光は、棟梁の座へと野心を抱いた。

そこで利用したのが、義家と不仲だった次兄・義綱である。
義光は異母弟で園城寺の僧となっていた快誉と共謀。
郎党・藤原季方を使って義綱の子・義明の刀を密かに持ち出し、
長男・義業の義兄にあたる平成幹(鹿島三郎)に命じて義忠を闇討ちにした。

朝廷は義綱らが義忠を排除して、源氏棟梁の座を狙ったものと断定。
義綱父子は嫌疑を否定するが、朝廷は義忠の後を継いだ為義を派遣し、これを討伐した。
この時、幼い為義の背後にいたのは義光だった。

可愛い弟キャラがどうしてこうなったのか

暗殺に関与した藤原季方と平成幹も義光と快誉によって葬られた。
直接的には手を汚さず、上手く事を運んだように見えるが、
何かの拍子で真相がバレてしまったらしい。
(というより、露見した正確な原因はわかっていない)

ともかく、事件の真犯人であることが公になった以上、
義光は自らの勢力圏である常陸に逃げ帰らざるを得なくなった。
かくして有力者を次々と失った河内源氏は凋落し、義光自身も三井寺にて没した。
死因は病死の他、義忠の遺児となる河内経国によって討たれたともされる。

藤原季方と平成幹の死

藤原季方は後三年の役において活躍した後、義明の乳母夫となっている。
義忠暗殺事件においては、まず義光から義明の刀を持ち出すように命じられ、
その刀で義忠が葬られると、義綱の命で義忠を襲撃した犯人に仕立て上げられてしまう。

義綱一族は甲賀山に篭もるものの、
その中で義明だけは病床にあったことから、季方の館に篭もることとなった。
やがて白河院の命を受けた検非違使が攻め寄せ、義明・季方は奮戦するも自害した。
季方が刀を持ち出したことを悔やんだのは間違いない。

平成幹は義光の長男・義業の義兄(妻の兄)にあたる。
義光は季方が持ち出した刀を成幹に与え、義忠の暗殺を命じた。
成幹は背後から義忠に斬りかかるものの、反撃を受けて負傷。義忠はその傷で死亡した。

成幹は暗殺の成功を主君・義光に報告した。
義光は成幹に弟・快誉宛の書状を与え、養生せよと園城寺に向かわせる。
快誉は書状を見ると、成幹を生き埋めにして始末した。口封じである。

思うに季方も成幹も、義光への不信を誰かに打ち明けていたのだろう。
こうした経緯がいつ、どこから漏れたかは定かではないが、
結果として義光の陰謀は暴かれ、今に至る。

武道や音律の名人

義忠暗殺事件のインパクトが強い義光だが、弓馬の術や音律に長けたとされる。
著名な古武道の流派・大東流合気柔術では、義光を開祖としているし、
弓術・馬術で知られる小笠原流、武田流にも縁深いとされる。

後三年の役

事件

後三年の役まとめ

前九年の役で活躍した清原氏の内紛。当時の陸奥守・源義家が介入する。
清原真衡と家衡&清衡の兄弟喧嘩。真衡死後は家衡と清衡が争い、ドロドロなお家騒動に。
清原氏の血を引かない清衡が最終勝利者となり、奥州藤原氏を立てる。

主な関係者たち(名前が似てて困る……)

清原清衡藤原清衡):藤原経清の子。母が清原武貞と再婚し、清原氏の養子となる。
清原家衡:武貞の末子、清衡の異父弟。相続で揉めた末、清衡の家族を皆殺しにする外道。
清原真衡:武貞の嫡男、清衡の継兄。源氏や平氏のような名門武士団に憧れている。
清原成衡:真衡の養子だが、平氏の出。乱後、フェードアウトする。
吉彦秀武:武貞の妹を妻とする一族の重鎮。三兄弟の叔父。
清原武衡:武貞の弟で三兄弟の叔父にあたる。家衡を支持するも、敗死。
源義家陸奥守として清原氏の内紛に介入。朝廷からの恩賞はなし。

清原一族と清原清衡について

清原氏はそもそも出羽の俘囚長である。
前九年の役陸奥守・源頼義を助けて安倍氏を討伐し、奥六郡の新たな支配者となった。
この功によって清原武則鎮守府将軍に任じられている。

この時、処刑された藤原経清には妻子がいた。
妻は安倍頼時の娘だが、敵将だった武則の嫡男・武貞と再婚する。
経清との間に生まれた息子は処刑を免れ、武貞の養子として育てられることとなった。

彼は元服すると、清原清衡と名乗った。
清原氏とは血縁関係に無く、家督継承権からは最も遠い人物である。

清原武貞の息子たち

武貞には3人の息子がいた。
嫡男・真衡、武貞とは血の繋がらない次男・清衡、そして三男・家衡である。
しかも清衡と家衡は母が同じという、
昼ドラもびっくりのドロドロな兄弟関係が形成されていた。

真衡の養子問題

真衡には子がなかった為、海道小太郎という者を養子に迎え、成衡と名乗らせた。
さらにその妻として源頼義の娘を娶らせようと計画する。
ところが成衡は平氏の出身であり、清原氏の血縁ではなかった。

真衡が平氏から養子を取った理由として、
清原氏は俘囚、すなわち蝦夷の豪族階級に過ぎず、
朝廷における身分は決して高くなかったことが挙げられる。
そこで平氏や源氏といった帝系の血を入れることで、
家格の向上を狙ったというのが有力な説である。

ただし、それは武貞の実子である家衡が、
清原氏嫡流から外れてしまうことも意味していた。

俘囚とは?

陸奥・出羽などの蝦夷において、朝廷の支配に応じた者たちのことを指す。
生活様式も大きく異なり、農耕ではなく狩猟や武芸を得意とした。
地位は低いものの租税は免除され、交易で多くの富を築いた。
中でも安倍氏は俘囚長を称し、清原氏は俘囚主を称し、一大勢力を誇ったという。

そしてお家騒動へ

不穏な空気の中。
成衡の婚礼を祝うべく、真衡の叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)がやってきた。
彼は武貞の妹を妻としており、一族の長老格でもある。

しかし、当時の真衡は養子問題のほか、
源氏・平氏のような棟梁に権力が集中する武士団化を目論み、一族の家人化を推し進めていた。
ゆえに吉彦秀武含む一族との折り合いは、お世辞にもよろしくなかった。

大きな盃に贈り物の砂金を盛り、庭先で待ち続けた吉彦秀武だが、
真衡はちょうど奈良法師と碁に興じており、これを無視した。
ブチ切れた秀武は砂金を庭に撒き散らすと、出羽に帰ってしまった。

これを受けて、真衡は吉彦秀武討伐の兵を挙げる。
敵わぬと思った秀武は、真衡の弟である清衡と家衡に打診し共に挙兵するよう促した。

陸奥守・源義家の下向と介入

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清衡・家衡に背後を衝かれた真衡だが、兵を返すと二人はあっさり退いた。

その年の秋、新任の陸奥守が下ってきた。
かつて前九年の役で戦った、源頼義の嫡男・義家である。
義家は成衡の義兄(妻の兄)にあたることから、真衡は三日間に渡る歓待でこれを迎えた。

その後、吉彦秀武を討つべく真衡が再び出羽へと出陣すると、
案の定留守を狙って清衡・家衡は攻撃を仕掛けた。随分セコい弟たちである。
しかし真衡方の奮戦に加えて義家が真衡に加勢したことから、
清衡・家衡は返り討ちに遭い、降伏へと追い込まれる。

しかし事態は更に急展開する。
行軍中の真衡が病で急死したのだ。

真衡の急死と義家の裁定

主のいなくなった奥六郡を、義家は清衡と家衡で三郡ずつ分けるように定めた。

この裁定に家衡は憤慨した。
清衡はそもそも謀反人・経清の子であり、清原氏の者ではない。
正当な清原の血を引く自分が彼と同格というのは納得できなかった。
家衡は兵を率いて清衡の館を強襲し、その妻子を皆殺しにした。
そして清衡一人が辛うじて生き延びたのだった。
(清衡・家衡の母はこの時の粛清に巻き込まれたとも、逃げ延びたともされる)

清衡&義家VS家衡&武衡

f:id:historic_something:20170212000024j:plain家衡の行動は陸奥守たる義家のメンツを潰した。
義家は生き残った清衡と組んで家衡を攻めるが、
飢えと寒さもあって返り討ちにされてしまう。
さらに家衡を支援したのが、武貞の弟で叔父にあたる武衡である。
義家への勝利を武門の誉れと讃え、堅固なことで知られる金沢柵へと移るよう勧めた。

清衡と義家はさらに金沢柵を攻めるも、こちらもまた攻めあぐねた。
そこで吉彦秀武兵糧攻めを献策。
これにより柵内の士気は低下し、家衡・武衡は敗走した。

武衡は潜伏しているところを捕らえられて斬首された。
家衡は変装して逃亡するも、見破られて射殺。
かくして清原氏は滅亡した。

後三年の役、その後

清原氏の中で唯一残った清衡は、姓を藤原に戻して奥六郡の支配者となった。
さらに平泉へと居を移し、中尊寺の建立や宋との貿易に着手。
以後、奥州藤原氏は100年の栄華を誇ることとなる。

源義家陸奥守を解任され、恩賞も得られなかった。
自腹で部下の恩賞を捻出したことで、名を挙げたのが唯一の救いだろうか。
この時に育まれた藤原氏と源氏の不思議な因縁は、
清衡の孫・秀衡による義経の保護、そして頼朝による奥州征伐へと繋がっていく。