歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源頼光(摂津源氏・初代)

源頼光まとめ

・満仲の長男で摂津源氏の祖。武士であると同時に、摂関家に仕える貴族的ポジションも強い。
藤原道長に仕えて活躍。「朝家の守護」と呼ばれる。
酒呑童子や土蜘蛛退治の物語で有名。頼光四天王という凄腕の家臣がいたという。

基本データ

生年:948年
没年:1021年(享年:73歳)

主な家族

父:源満仲
兄弟: 頼親(長弟・異母弟)、頼信(次弟・異母弟)

人間関係

渡辺綱頼光四天王の筆頭。れっきとした嵯峨源氏の出で、官位の記録あり。イケメン説あり。
坂田金時:四天王その2。金太郎のモデルとされるが、実在しないという説も。
碓井貞光:四天王その3。平氏もしくは橘氏とされる。四万温泉を見つけた人とも。
卜部季武:四天王その4。平季武とも言う。他の四天王と共に酒天童子や土蜘蛛を退治する。
藤原道長:藤原摂関家の全盛期を築いた人。頼光に将帥の器と見込まれる。

摂津多田を継いだ満仲の長男

「よりみつ」とも「らいこう」とも呼ばれる、源満仲の長男。
父の所領を受け継ぎ摂津源氏の祖となる。次弟・頼親と三弟・頼信は異母弟にあたる。
父と同じく藤原摂関家に仕え、特に道長の側近として活躍した。

摂関家の家司として勢力を伸ばす

備前、美濃、但馬、伊予、摂津の受領を歴任した頼光は着々と力をつけていく。
40歳ごろには摂関家とかなり親密な関係を築いており、
摂政藤原兼家が新邸を造営した時は馬30頭を献上し、
道長が土御門殿を新造した時は厨子や屏風、唐櫛、銀器、剣といった調度品を多数贈っている。
その際、あまりに品数が多かったため、公卿が書き写したという。

頼光は最終的に正四位下まで出世し昇殿まで許されたが、
父や祖父が就いた鎮守府将軍は得られなかった……らしい。
(文献によっては在任していたとも言うが、期間は不明。
鎮守府将軍の正式な記録があるのは、河内源氏の祖となった三弟・頼信である。)

摂津源氏嫡流

この当時はまだ「源氏の棟梁」という概念も無かったが、
後世、摂津源氏ではなく河内源氏が棟梁を名乗るようになったのは、
武官の最高職である鎮守府将軍の系譜が影響した可能性もある。

頼光以降の摂津源氏は京を拠点に活動し、
代々大内守護(天皇の護衛や内裏の警護)を任とした。
こうした背景から、武士でありながら公家の文化にも通じた一族となる。

摂津源氏の有名な人物として、以仁王の挙兵に応じた源頼政
鹿ヶ谷の陰謀を密告した多田行綱がいるが、
河内源氏ほどゴリゴリの武闘派は輩出していない。
やはり京で暮らすと武士は弱くなってしまうのだろうか。

頼光四天王と共に多くの伝承が残る

頼光に関する史料は朝廷内での活動が多く、
反乱を鎮圧したり、地方でオラついて顰蹙を買ったり、といった武士らしい行動は少ない。
その内容も多大な財力で藤原摂関家に貢物をしたという話ばかりである。

こうしたことから貴族的性質が強いように見えるが、
権勢を増す摂関家の警護を担ったことから「朝家の守護」と讃えられている。
更に『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』など後世作られた物語の中では、
酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で活躍する武人として描かれている。

実は歌人としての評価も高く、勅撰和歌集にも収録されている。

平安時代のゴーストバスター

中でも頼光四天王渡辺綱坂田金時碓井貞光卜部季武
と呼ばれる武勇に秀でた家臣たちは有名である。
四天王の筆頭である渡辺綱嵯峨源氏の出身で、後に水軍で知られる渡辺党の祖となる。
坂田金時は昔話で知られる金太郎のモチーフとなった。

武勇で鳴らし、妖怪退治の伝説を残す猛者は多数いるものの、
複数人のグループで伝説に名を残した例はあまり見られない。

とは言え、隆盛を極めた摂関家と、それに仕えた最強の武士団ということで、
バトル系ファンタジーの題材として好まれたのかもしれない。

源満仲(多田源氏・初代)

源満仲まとめ

・多田に拠点を構え、多田満仲(ただのまんじゅう)と呼ばれる。ギャグではない。
藤原兼家道長の父)に仕えて活躍。富を蓄え、多くの郎党を養う。武士団のはじまり。
安和の変花山天皇退位事件等に関与する。武闘派に見えて、案外策謀家。

基本データ

生年:912年
没年:997年(享年:87歳)

主な家族

父:源経基
兄弟:満政(長弟)、満季(次弟)、他
子:頼光(嫡男)、頼親(次男)、頼信(三男)、他

人間関係

藤原千晴藤原秀郷の嫡男。目障りなライバル。
源高明:最初の上司。後に失脚へと追い込む。
藤原兼家:転職先の上司。彼の下で大出世していく。
源満季:満仲家のセコム。

都の武闘派貴族、武士団を作り上げる

若き日の満仲については正しく判っていない。
平将門の子が入京したという噂が流れた際、その捜索を命じられたというから、
父・経基に従って関東で過ごしていた可能性は高い。
(更には将門一族と面識ぐらいはあったかもしれない)

満仲の名が史料上で目立つのは、彼が50歳近くになってからだ。
その頃には武官貴族として都で活動しており、
自邸を襲った強盗を自ら捕らえるなど、老いてなお盛んな御仁だった。

安和の変と満仲の密告

この頃、朝廷では左大臣源高明藤原氏の間で権力闘争が生じていた。
そんな中、満仲は皇太子・守平親王を廃するという謀反の密告をする。

この結果、源高明は失脚。
更に満仲のライバルだった藤原千晴藤原秀郷の子)も隠岐へと流された。
そもそも満仲は高明派であり、実は裏切って密告したのではないかと噂されている。
これ以降、満仲は藤原摂関家へと接近。
彼の子孫たち、特に河内源氏が藤原摂関家と縁深いのはこの頃からである。

満仲がどういう意図で密告したかは定かではないが、
当時、孤立気味だった源高明から、更に勢いづいた藤原摂関家に乗り換えられたこと、
近所の武官貴族として勢力を競っていた藤原千晴を排除できたことを考えると、
偶然と言うより、政治的に計算された行動のように思える。
(なお藤原千晴は弟・満季が捕まえている。)

藤原摂関家への鞍替え

その後、満仲は藤原兼家に仕えた。
あの道長父親であり、摂関家の地位を高めた人物である。
この頃、武蔵国伊予国陸奥国などの受領から、左馬権頭・治部大輔を経て
最後は父同様、鎮守府将軍の職に至った。
これらの官職で莫大な富を築いた満仲は、
他の武士から嫉妬されまくった末に自邸を襲撃&放火されている。
この時の火災は満仲の屋敷だけでなく、周囲数百件を巻き込む大惨事となった模様。
(なお犯人は弟・満季が捕まえている。)

さらに兼家が画策した花山天皇退位事件(寛和の変)においては、
花山天皇を連れ出した藤原道兼(兼家の三男)を警護したという。

多田源氏と武士団のはじまり

満仲は多田盆地を中心に多くの所領を開拓し、多数の郎党を養い武士団を形成した。
彼自身も多田満仲と名乗っている。

ドラゴンスレイヤー満仲

朝廷から摂津の地を得た満仲が、住吉大社に参拝して居城を構える場所を祈念したところ、
「矢を放ち、落ちたところに造れ」というお告げがあった。

そこで満仲は鏑矢を放ち、それを郎党たちが探したところ、
矢は沼に棲む9つの頭を持つ巨大な蛇(九頭龍)を射殺していた。
その地は肥沃で、多くの田を生み出したことから多田と呼ばれたという。
三ツ矢サイダーの「三ツ矢(満矢?)」の由来とも言われる。

殺生放逸の者、菩薩心を起こす

生涯の大半を武力と陰謀に費やした満仲だが、晩年は息子の勧めで出家している。
当時の人は言う。
「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と。
満仲はその後、87歳で亡くなった。

膝丸と髭切

平家物語等で有名な膝丸と髭切という揃いの刀がある。
この二振りは源氏重代の太刀と呼ばれ、満仲の命で作られたとされる。

源経基(清和源氏・初代)

源経基まとめ

清和天皇の孫・経基王臣籍降下し、源姓を名乗る。
・関東にフロンティアを求めたら、平将門らとトラブルになり逃走。
・自身の武功はさっぱりだが、なんだかんだで乱は鎮圧。最後は鎮守府将軍に。

基本データ

生年:不明
没年:961年

主な家族

父:貞純親王(異説あり)
母:源能有(祖父・清和天皇の兄)の娘
子:満仲(嫡男)、満政(次男)、満季(三男)、他

人間関係

平将門武蔵国に乗り込んできた乱暴者。
興世王:一緒に略奪する仲だったのに裏切られる。
武蔵武芝:貢物を出さない生意気なやつ。

清和源氏の祖は戦闘力低め

一般的には清和天皇の孫・経基王臣籍降下して源経基と名乗ったことに遡る。
父の貞純親王は第六皇子であり、若くして薨去している。
元皇族と言えど、上級貴族がひしめく朝廷において出世の見込みは薄い。
経基に限らず、臣籍降下した皇族たちは地方に活路を求める者も多かった。

さて。源経基の名が歴史に出るのは、武蔵介として任地に向かうところである。
武蔵介。現代で言うなら埼玉県の副知事にあたる。

こんにちは、略奪だ!

武蔵国にたどり着いた経基は、まず武蔵権守の興世王と共に兵を率いて略奪を始めた。
(武蔵権守:武蔵守の代理(=権)。埼玉県知事の代理を意味する)
正確には地元の豪族・武蔵武芝に検注を要求する→断られる→よろしい、ならば略奪だ!
という流れである。
ちなみに武芝が検注を断ったのは、その時点で正規の武蔵守が赴任しておらず、
武蔵守不在の検注は前例がなかった為とされる。

検注とは?

租税収取のため、荘園で行われる土地調査のこと。
当時の国司は地元の有力者から莫大な賄賂・貢物を貰うことも多く、
経基らの場合も実はそれが目当てだったようだ。
……結構、悪いやつですね!

将門から逃げ帰り、朝廷にチクる

経基らが略奪を楽しんでいると、
武芝の依頼を受けて下総から平将門がやってくる。
興世王は将門・武芝と和解するものの、経基はこれに応じず、武装して山中に立てこもった。

一方、先に和解した三者は酒宴を開いていたが、ここで武芝の兵が勝手に経基の陣を包囲してしまう。
もしや彼らは結託して自分を陥れ、殺す気ではあるまいか?
ビビった経基は京へと逃げ帰り、将門・武芝・興世王が謀反を企んでいると朝廷にチクった。

ところが朝廷は経基の誣告を信じず、将門側の申し開きを認めてしまう。
これにより経基は讒言の罪で拘禁されることとなる。

嘘から出た真?

……しかし。
その将門は1年も経たないうちに関東各地の国府を襲撃し、「新皇」を僭称する。
承平天慶の乱である。

朝廷は経基の訴えが事実だったと認めると、彼を釈放し従五位下の位を与えた。
さらに経基は将門追討軍へと加わり関東へと向かうものの、
現地に到着する前に将門が討たれた為、あっさり帰京している。

西国ではほぼ同時に藤原純友が乱を起こしており、
今度はこちらの平定を命じられるも、やはり目立った活躍はできなかった。

経基の晩年

その後は地道に武蔵・信濃筑前・但馬・伊予の国司を勤め、最後は鎮守府将軍まで出世した。
最終官位は正四位上
子孫に比べるとその武功はどうにも冴えないが、
鎮守府将軍に任じられたことから、朝廷の評価はそれなりに高かったと思われる。

鎮守府将軍とは?

奈良時代から続く、陸奥の軍事拠点・鎮守府の長官である。
とは言え、陸奥守との兼ね合いもあり、
次第に優れた武士に与えられる名誉職としての色合いが強くなっていく。
経基からはじまり、八幡太郎義家まで5代続いて任官している。
源氏のシンボル、後の征夷大将軍にも繋がる職と考えてよい。

陽成源氏」説

最近唱えられている異説として、
実は清和天皇ではなく、その子・陽成天皇貞純親王の兄)の子孫とするものがある。
しかし論拠となる文書の信憑性を疑う声も根強い。

源氏とは

源氏まとめ

・日本を代表する姓。臣籍降下によって、臣下になった皇族の一部。
・52代嵯峨天皇の時、多くの子どもたちが臣籍降下したことがはじまり。
・一番有名なのは57代清和天皇の子孫にあたる、清和源氏

日本最古の姓・源氏

源というのは、臣籍降下で生まれた姓だ。

源氏と言えば、源頼朝を出した清和源氏が一番有名だが、それ以外の源氏もたくさんいる。
代表的な姓の一つで、「源平藤橘」と呼ばれる四姓に数えられる。
ちなみに名の由来は皇室と「源流」を同じくするから、
もしくは「水の元=みなもと」とする説がある。

はじまりは嵯峨天皇

52代嵯峨天皇はなんと23人もの皇子がいた。
このうち17人の皇子に対して臣籍降下が行われた。
この時に与えられたのが源姓である。

臣籍降下とは?

皇族がその身分を離れ、姓を得て臣下の籍に降りることをいう。
あまりに皇族が多いと朝廷の財政を逼迫するし、実際に皇位を継承できる皇子も数少ない。
そこで皇位継承権から遠い皇子には姓を与え、積極的に臣下へと組み込んでいった。

源氏二十一流

一般的には清和源氏のイメージが強い源氏だが、武家も公家も両方いる。
そして祖とする天皇別に21の流派がある。
通称、源氏二十一流と呼ばれる。ただし一代限りの賜姓も多い。

武家で知られる源氏

超大雑把な清和源氏の家系図

一番有名なのは清和天皇の孫・源経基経基王)より始まった清和源氏だろう。

鎌倉幕府を開いた源頼朝清和源氏の一つ、河内源氏の出だ。
源義家源為朝をはじめ、多くの強者が河内源氏から誕生する様は、
どこかの戦闘民族を彷彿とさせる。

河内源氏は有名な武家も多く残しており、
下野源氏(=足利氏)、上野源氏(=新田氏)、甲斐源氏(=武田氏)などが子孫にあたる。

河内源氏以外にも有名な武家源氏は多い。
以仁王の挙兵で知られる源頼政は早期に河内源氏から分岐した摂津源氏だし、
清和源氏以外にも、例えば嵯峨源氏(=渡辺氏、松浦氏など)や
その流れを組む近江源氏(=佐々木氏)などもある。

ただし武家源氏は、地方に根付くと改姓する傾向にある。
※正式な書面では「徳川次郎三郎源朝臣家康」と名乗ったりする。

公家で知られる源氏

平安時代初期に一大勢力を築いた嵯峨源氏や、
管弦の名手として名高い源博雅を出した醍醐源氏
六条家、岩倉家、千種家などの堂上家を多く生み出した村上源氏などが有名。
南北朝時代に公家でありながら南朝方として戦った北畠氏も村上源氏の流れである。