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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源為義

人物(清和源氏)

源為義まとめ

・若くして源氏の棟梁となるも、内部抗争によって河内源氏は既にボロボロの有様。
・宮廷では素行の悪さから昇進できない。関東に向かった長男・義朝とは次第に対立する。
保元の乱において敗北。義朝の助命嘆願も聞き入れられず、処刑される。

基本データ

生年:1096年
没年:1156年(享年:60歳)

主な家族

父:源義親
子:義朝(長男)、義賢(次男)、頼賢(四男)、為朝(八男)、行家(十男)他

人間関係

源義朝:微妙な距離の長男。だけど義朝なら…義朝ならきっとなんとかしてくれる。
源義賢:可愛い次男。でも頼りないんだ……。
源為朝:源氏の最終兵器。我が息子ながら手に負えない。もぅ、無理。
源義光:無責任ジジイ。
平忠盛:父の仇・正盛の息子。ライバルと言いたいが、相手にされてない感も。
藤原頼長摂関家の為ならなんでもしちゃう!えっへっへ(揉み手)

落ちぶれる源氏

叔父・義忠の暗殺後。祖父・義家の遺言に従い、河内源氏の棟梁となる。
しかし彼はまだ14歳で有力な後ろ盾もない。
父・義親は反乱を起こして討伐され、他の異母兄弟は遠く対馬で暮らしている。
そんな状況から彼のハードモードな人生は始まる。

義忠暗殺事件の主犯として疑われたのは、大叔父・義綱だった。
そこで別の大叔父・義光の後援により、これを討ち果たすものの、
後に義綱は冤罪であり、真犯人が義光だったことが露見してしまう。
結果、義光は無責任にも常陸へと引きこもり、
京に一人残された為義は源氏再興のため、孤軍奮闘を強いられることとなる。

出世できない男

為義が中央政界で上手く立ち回れたかと言うと凄まじく微妙だった。
14歳のデビュー時は、期待のホープとして左衛門少尉に任じられたものの、
それから目立った功績を上げることもなく、失策続きの日々を過ごす。
結果、ろくな官職も得られず、永遠の左衛門少尉&検非違使止まり。
その左衛門少尉すら、解官同然の辞任によって手放している。

一方、伊勢平氏の飛躍は目覚ましく、
正盛の後を継いで当主となった平忠盛は、院の信頼を得て受領を歴任している。
河内源氏の威光は地に落ちた。

義朝と義賢

中央で苦戦する為義を横目に、
長男・義朝は京を離れて関東へ向かい、相模国近辺に勢力を張った。
彼は上総御曹司と呼ばれ、三浦氏や波多野氏といった在地豪族と姻戚関係を結んでいる。

一方、次男・義賢以下の息子たちは京にて官吏の道を歩んでいく。
少年時代に東国へ下った義朝が無官のままだったのに対し、
義賢は東宮帯刀先生という東宮警護の任に就いた。

この頃、為義にとっての後継者は義朝<義賢だったらしい。
ところが義賢も殺人事件に関与するという地雷を踏んだことから、
これを罷免されてしまう。ダメなところも親父そっくりですね。

院がダメなら摂関家に媚びよう

最初の頃は院に仕えた為義だったが、
重ねた失態のお陰で見事に信頼を失ってしまった。
そこで目をつけたのが義家以前に懇意としていた摂関家である。

以降、為義は摂関家の私兵として活動し、ここでは堅実に勤め上げた。
そのことが評価されたのか、10年ぶりに左衛門大尉&検非違使へと還任している。

義朝の帰還と家族喧嘩のはじまり

この頃、義朝が京に帰って来た。
彼は妻の実家・熱田大宮司家のツテで鳥羽法皇に仕えたことから、
摂関家に近い為義とは親子でありながら競合関係に陥ってしまう。

当時の摂関家当主(藤氏長者と言う)は藤原忠通だったが、
忠通はその父・忠実や弟・頼長と不和だった。
為義は忠実の命により、忠通から藤氏長者の証となる東三条殿と朱器台盤を強奪した。

忠通を事実上廃嫡し、頼長を藤氏長者に据えたこの事件は、
後に為義の運命を決定づける一因となる。

為義派と義朝派の対立

検非違使に復帰した為義だが、出世できないのは相変わらずだった。
一方、義朝は父を飛び越え下野守に任じられた。源氏待望の受領職である。

そんな長男の出世を素直には喜べなかったのだろう。
為義は東国における彼の勢力を削ぐため、義賢を上野国へと派遣する。
さらに京では為義の四男・頼賢と、義朝と同盟関係にある源義康が争った。

しかし状況は悪化の一途を辿る。
東国に派遣した義賢は義朝の長男・義平によって討たれ、
わずか2歳の遺児・駒王丸は命からがら落ち延びた。
この少年は後に木曽義仲と呼ばれる猛将となるが、それはまた別の話。

次男・義賢の死に続き、八男・為朝が九州を平らげる程の大暴れをした末、
為義は父としてその責任を問われ、解官されてしまう。
後継者と目していた四男・頼賢も春日社より訴えられて解官された。

保元の乱

源氏における為義派の勢力が削がれていったのは、
為義の後ろ盾となっていた藤原忠実・頼長父子への圧力も一因とされる。
院周辺では以前為義に襲われた藤原忠通信西、美福門院らが結託して、
忠実・頼長の追い落としにかかっていた。

平安末期のお家騒動

源氏のみならず、よその家でもお家騒動が勃発していた。
伊勢平氏では平清盛(甥)VS忠正(叔父)。
藤原摂関家では藤原忠通(兄)VS藤原忠実(父)&頼長(弟)。
天皇家では後白河天皇(弟)と崇徳上皇(兄)の間に確執が生じている。

そんな中、治天の君として君臨した鳥羽法皇が亡くなり、
上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流れた。
この左府とは藤原頼長のことを指す。
要するに頼長と崇徳上皇が結託して、謀反を起こすのではないかという疑いである。

この風聞を受け、後白河天皇は様々な勅命を発した。
義朝は藤原頼長の邸宅である東三条殿へと押し入り、これを没官する。
追い詰められた頼長は、脱出した崇徳上皇と結託して兵を上げる他なくなり、
為義と義朝以外の息子たちは、頼長に従い上皇方として参戦することとなる。

為朝以外はいいとこなし

開幕の時点で天皇方と上皇方の間には動員兵力で差がついていた。

天皇方には源義朝平清盛といった源氏・平氏の主力が揃っていたのに対し、
上皇方に集った為義や平忠正などの武士は藤原氏の私兵にすぎなかった。

そんな中でも、八男・為朝の強弓は清盛&義朝の軍に大打撃を与え、
一時は義朝を撤退させている。

業を煮やした天皇方は義朝の献策により火攻めを敢行。
これにより上皇方は総崩れとなり、為義一族は投降した。

悲劇の戦後処理

かくして、保元の乱天皇方の勝利に終わる。
しかし問題はその戦後処理だった。

400年前に起きた薬子の変以来、公的な死刑というものはなかった。
しかし院近臣の信西は死刑の復活を決定する。
義朝は自らの戦功と引き換えに父や弟たちの助命を嘆願するも、
為義とその子らは斬首となった。無念。

唯一、為朝だけはその武勇を惜しまれ、伊豆大島へと流されている。

実は子沢山?

出世には終生恵まれなかった為義だが、子には恵まれた。
諸説あるが、その数は30人とも40人とも言われる。
勿論、その全てが成人したわけではないし、
成人した男子の多くは処刑もしくは戦死している。戦闘民族・河内源氏は業が深い。