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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源経基(清和源氏・初代)

人物(清和源氏)

源経基まとめ

清和天皇の孫・経基王臣籍降下し、源姓を名乗る。
・関東にフロンティアを求めたら、平将門らとトラブルになり逃走。
・自身の武功はさっぱりだが、なんだかんだで乱は鎮圧。最後は鎮守府将軍に。

基本データ

生年:不明
没年:961年

主な家族

父:貞純親王(異説あり)
母:源能有(祖父・清和天皇の兄)の娘
子:満仲(嫡男)、満政(次男)、満季(三男)、他

人間関係

平将門武蔵国に乗り込んできた乱暴者。
興世王:一緒に略奪する仲だったのに裏切られる。
武蔵武芝:貢物を出さない生意気なやつ。

清和源氏の祖は戦闘力低め

一般的には清和天皇の孫・経基王臣籍降下して源経基と名乗ったことに遡る。
父の貞純親王は第六皇子であり、若くして薨去している。
元皇族と言えど、上級貴族がひしめく朝廷において出世の見込みは薄い。
経基に限らず、臣籍降下した皇族たちは地方に活路を求める者も多かった。

さて。源経基の名が歴史に出るのは、武蔵介として任地に向かうところである。
武蔵介。現代で言うなら埼玉県の副知事にあたる。

こんにちは、略奪だ!

武蔵国にたどり着いた経基は、まず武蔵権守の興世王と共に兵を率いて略奪を始めた。
(武蔵権守:武蔵守の代理(=権)。埼玉県知事の代理を意味する)
正確には地元の豪族・武蔵武芝に検注を要求する→断られる→よろしい、ならば略奪だ!
という流れである。
ちなみに武芝が検注を断ったのは、その時点で正規の武蔵守が赴任しておらず、
武蔵守不在の検注は前例がなかった為とされる。

検注とは?

租税収取のため、荘園で行われる土地調査のこと。
当時の国司は地元の有力者から莫大な賄賂・貢物を貰うことも多く、
経基らの場合も実はそれが目当てだったようだ。
……結構、悪いやつですね!

将門から逃げ帰り、朝廷にチクる

経基らが略奪を楽しんでいると、
武芝の依頼を受けて下総から平将門がやってくる。
興世王は将門・武芝と和解するものの、経基はこれに応じず、武装して山中に立てこもった。

一方、先に和解した三者は酒宴を開いていたが、ここで武芝の兵が勝手に経基の陣を包囲してしまう。
もしや彼らは結託して自分を陥れ、殺す気ではあるまいか?
ビビった経基は京へと逃げ帰り、将門・武芝・興世王が謀反を企んでいると朝廷にチクった。

ところが朝廷は経基の誣告を信じず、将門側の申し開きを認めてしまう。
これにより経基は讒言の罪で拘禁されることとなる。

嘘から出た真?

……しかし。
その将門は1年も経たないうちに関東各地の国府を襲撃し、「新皇」を僭称する。
承平天慶の乱である。

朝廷は経基の訴えが事実だったと認めると、彼を釈放し従五位下の位を与えた。
さらに経基は将門追討軍へと加わり関東へと向かうものの、
現地に到着する前に将門が討たれた為、あっさり帰京している。

西国ではほぼ同時に藤原純友が乱を起こしており、
今度はこちらの平定を命じられるも、やはり目立った活躍はできなかった。

経基の晩年

その後は地道に武蔵・信濃筑前・但馬・伊予の国司を勤め、最後は鎮守府将軍まで出世した。
最終官位は正四位上
子孫に比べるとその武功はどうにも冴えないが、
鎮守府将軍に任じられたことから、朝廷の評価はそれなりに高かったと思われる。

鎮守府将軍とは?

奈良時代から続く、陸奥の軍事拠点・鎮守府の長官である。
とは言え、陸奥守との兼ね合いもあり、
次第に優れた武士に与えられる名誉職としての色合いが強くなっていく。
経基からはじまり、八幡太郎義家まで5代続いて任官している。
源氏のシンボル、後の征夷大将軍にも繋がる職と考えてよい。

陽成源氏」説

最近唱えられている異説として、
実は清和天皇ではなく、その子・陽成天皇貞純親王の兄)の子孫とするものがある。
しかし論拠となる文書の信憑性を疑う声も根強い。