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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源頼義

源頼義まとめ

・父と共に平忠常の乱を平定し、若くして名を挙げた源氏の御曹司。
前九年の役で大苦戦するも、清原氏に頭を下げまくって鎮圧にこぎつける。
・朝廷の評価は高く、当時の清和源氏としては極位となる正四位下まで昇進した。

基本データ

生年:988年
没年:1075年(享年:87歳)

主な家族

父:頼信
兄弟:頼清(長弟)、他
子:義家(嫡男・長男)、義綱(次男)、義光(三男)、他
舅:平直方

人間関係

安倍貞任:朝廷の威光に歯向かう不届き者。
藤原経清藤原秀郷の子孫とされる。裏切り者。絶許。
清原武則:先生、出番です。

関東に河内源氏の基盤を築く

父・頼信の長男として、香炉峰の館で生まれる。
頼信は関白・藤原頼通に対して頼義を武者に、弟・頼清を蔵人(官僚)に推挙している。

桓武平氏の婿になる

関東で平忠常の乱が起きた時は、父に従いこれを平定する。
乱の鎮圧に失敗した頼信の前任者・平直方は頼義の武勇に感激し、
自らの娘を嫁がせ、鎌倉の所領や桓武平氏の郎党(坂東平氏)をごっそり譲り渡した。
これにより河内源氏が東国に根付く足がかりとなった。

弟・頼清とは出世競争で差をつけられる

一方、頼清は次々と受領に任じられ、中央政界で出世していく。
彼は信濃に勢力基盤を築き、後の村上氏や波多氏の祖となった。

前九年の役

頼義が齢50を迎えようとする頃、陸奥の奥六郡で騒乱が起きる。
首謀者は安倍一族。朝廷は頼義を鎮守府将軍陸奥守に任じ、乱の平定を命じた。

ところが安倍一族の長・頼時は、頼義が現れると平身低頭で降伏する。
丁度、朝廷の恩赦もあったことで安倍氏の反乱は赦され、
後は陸奥守の任期が平穏に過ぎゆくはず……だった。

安倍貞任、頼義に反抗する!?

任期満了を間近に迎えたある日、
頼義配下の陣が頼時の嫡男・貞任によって荒らされたという報せが入る。
頼義は貞任の引き渡しを要求するが、頼時はこれを拒否。再び反乱が起きることとなる。
(通称:阿久利川事件。ただし、これまで臣従してきた安倍氏が今になって事件を起こす理由はなく、
頼義や反安倍氏の勢力による陰謀ではないかという説も根強い。)

藤原経清平永衡

頼義には藤原経清平永衡という有力な幕僚がいた。
この2人は現地の豪族であり、微妙なことに頼時の娘婿たちでもあった。

ある日、永衡が目立つ兜を被っていたのを、
内通している敵から狙われぬようにするためだ、と讒言する者がいた。
頼義はこの疑いを聞き入れて永衡を誅殺する。

相婿の粛清に疑心暗鬼を抱いた経清は、安倍軍へと出奔してしまう。
経清の裏切りを聞いた頼義は、自分の行動を棚に上げて大層激怒したと言う。
河内源氏の皆様は戦闘力こそ高いものの、人間関係で問題を起こしがちである。

安倍氏のゲリラ戦に苦戦

頼義は乱の序盤で頼時を討ち取るが、後を継いだ貞任に手を焼いた。
朝廷には頼時討伐を報告して増援を要請するものの、恩賞もなければ、援軍もない。
かくして頼義は土地勘のない陸奥で苦戦を強いられることとなる。

黄海の戦い

頼義生涯の危機とも言えるのが、黄海の戦いである。
厳しい風雪と兵糧不足に悩まされた官軍は、兵力で上回る安倍軍によって粉砕された。
この戦いでは多くの家臣が亡くなり、一時は頼義討死の報せすら飛び交ったという。

この後も貞任や経清は陸奥の支配を脅かし、朝廷への税を奪うなど好き勝手に振る舞った。
頼義のメンツは丸つぶれである。

戦況が泥沼化する中、陸奥守の任期が何度か過ぎているものの、
後任の者が任地に行かず逃亡する、やってきても陸奥の役人たちが従わないなどの理由から、
なんだかんだで頼義が再任を続けている。

清原氏の参戦と逆転

頼義はかねてから出羽の大豪族・清原氏に参戦を要請していた。
清原氏の当主・光頼は当初これを渋っていたが、
朝廷の威光を盾にし、珍しい貢物でさんざん機嫌を取った末に、ようやく出陣にこぎつける。
(一説には頼義から名符を差し出し、臣従したとすら言われる)
ここでも頼義のメンツは丸つぶれである。

清原氏が参戦したことで、規模の膨れ上がった官軍はトントン拍子で勝ち続けた。
一方、安倍軍は全てが裏目に出て追い詰められていく。
結局、安倍一族は討伐・捕縛・処刑されて滅亡。
経清も爆ギレした頼義によって鋸挽きの刑に処される。

幸せな晩年

東国で苦労した甲斐あってか、頼義の晩年はまぁまぁ報われたものだった。
伊予守という栄転(?)に加え、正四位上という公卿一歩手前まで昇進する。
やっとこ頼義のメンツは守られたようだが、
東国でこれ以上勢力を根付かせないように、という朝廷の思惑もあったと言われる。

伊予守の任期を終えると、出家して「滅罪生善」に励み、87歳で没した。

優れた武人なのは確かだが、将としての評価は悩むところである。
藤原経清平永衡の件がなければ、ここまで乱は長引かなかったともされるし、
勝てたのも大軍を擁する清原氏の参戦があってこそでもある。
とは言え、東北における河内源氏の存在感を高めたのは間違いない。