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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義親

人物(清和源氏)

源義親まとめ

・義家の次男。やんちゃすぎるあまり、後継者からは早々に外されている。
・武勇に秀で、通称「悪対馬守」と呼ばれる。九州で乱暴狼藉を働きまくった。
平正盛にあっさり討伐される。四男・為義は源氏の棟梁に。

基本データ

生年:不明
没年:1108年

主な家族

父:源義家
兄弟:義忠(長弟)、義国(次弟)
子:義信(長男)、為義(四男)

人間関係

源義家:ヤダヤダ!略奪やめるのヤダヤダ!
平正盛:お前が討ったの、あれ偽物な。多分。

「悪」の呼び名がつく、源氏の乱暴

義家の長男・義宗は早世しており、次男の義親が嫡男となる。
義親は父譲りの剛勇を誇り、「悪対馬守」と呼ばれた程の猛者だった。

当時の「悪」という言葉に善悪の意味はなく、
今で言うところの「強い者」というニュアンスで使われていた。
似たような事例として、源義平の異名「悪源太」などが有名である。

尤も、義親は強いだけでなく素行も酷かった。
「悪い対馬守」と解釈しても、そこまで違和感はなかったりする。
そんな事情から、義家は三男・義忠を後継者に考えた。

義親追討令

義親は九州で略奪や殺人を働いたことから、朝廷より問題視された。
当初義家は郎党の藤原資道を派遣して、召還・説得を試みるものの、これに失敗。
資道は説得どころか義親側について官吏を殺害する有様だった。

朝廷は義親を出雲国へ配流とするが、義親はこれすらも従わず、
出雲で更に狼藉の数々を重ねた。

もはや義親に弁護の余地はなく、ついに父・義家へと追討令が下される。
しかし義家はその直後に病死してしまう。

院の陰謀

義親に関する一連のトラブルは、
父・義家の権勢を恐れた白河院の嫌がらせも一因だったと言われる。

河内国を本拠とし、代々東国で活躍してきた源氏にとって、
西国である対馬守は勝手のわからないものだっただろうし、
義親の乱行を訴えた大江匡房は院の近臣でもあった。

平正盛による追討?

義家に代わって義親討伐を命じられたのは、
当時勢力を伸ばしていた伊勢平氏の棟梁・平正盛だった。
彼は清盛の祖父にあたるが、それまで目立った武功は立てていない。

ところが12月に討伐を命じられた正盛は、
翌年の1月には討ち取ったと報告した。
院はこれを喜んだが、この武功を疑う者も多かったらしい。
密かに義親は生きているのではないか、という噂が流れた。

かくして1130年ごろ、義親討伐から20年近く経つまで、
偽の義親が各地で出没するという事態が発生する。

量産される偽義親

偽義親は全部で4人いる。
越後に現れた義親は斬首された後、身元不明のままうやむやになった。
次に常陸に現れた義親は源頼政の父・仲政が取り逃がし、5年かけて捉えるも、
結局は偽物ということで梟首された。

白河法皇の死後、藤原忠実の鴨院邸に義親が匿われたという風聞が流れた。
そこに大津から別の義親が入京し、義親が2人いるという事態となった。
結果、鴨院義親と大津義親は郎党を率いて争い、大津義親が殺された。

生き残った鴨院義親もその後何者かに襲撃され、討ち取られている。
狼藉以外の事績が残らない義親だが、その武勇が本物だったのは間違いない。

義親の子と源氏の後継者

義親には多くの子がいた。
長男・義信は対馬太郎を名乗り、従四位下・左兵衛佐まで昇進している。
他の兄弟も対馬次郎、対馬三郎……と名乗っているが、四男・為義だけは別枠だった。
というのは、義家の遺言により、義忠の後継として指名されたからである。

義家にとって義忠はあくまで源氏嫡流における通過点であり、
本命は義親流に、と思っていたのだろうか。