歴史人物の備忘録

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源義忠

源義忠まとめ

・義家の死後、源氏の棟梁となった若きホープ。
伊勢平氏白河院とも協調姿勢を取り、河内源氏を支える。
・源氏の棟梁を狙った義光の陰謀によって暗殺される。

基本データ

生年:1083年
没年:1109年(享年:26歳)

主な家族

父:源義家
兄弟:義親(次兄・異母)、義国(長弟・同母)、他
子:河内経国(長男)、他
舅:平正盛

人間関係

源義親:ケンカの強い兄。自重しろ。
源義国:ケンカの強い弟。自重しろ。
平正盛:兄の仇だけど、舅。
源義光:俺の仇。

若くして散った河内源氏の良心

父・義家の死後、わずか23歳で家督を継ぐ。
長兄・義宗は若くして亡くなり、次兄・義親は対馬守に任じられるも、
九州で狼藉を働いたことでお尋ね者となってしまう。
同母弟の義国も気性が荒く、常陸国で叔父・義光と争った末、ともに捕縛命令を受けている

義忠がどの時期から後継者と目されるようになったかは不明だが、
河内守に任官した辺り、比較的若い頃から嫡男の扱いを受けているようだ。
(兄・義親は対馬守、弟・義国は加賀介だが、どちらも格下である)
かなり若年での任官だが、当時は父・義家が健在であり、院の懐柔策だったと見てよい。

河内守は受領の中でも要職で、河内源氏で任じられたのは義忠が最後である。

新興武士勢力・伊勢平氏

義家の死後、河内源氏は明らかな衰退期に入っていた。
河内源氏は元々摂関家と縁深かったが、当時政治の中枢を握っていたのは白河院だった。
そして院が義家を引き立てていたのは、公卿への牽制もあったが、
何よりその力を恐れていたからである。故に義家が亡くなった後は冷遇しかなかった。

源氏に代わって院がテコ入れしたのは、後に平清盛を輩出する伊勢平氏である。
それまで無名だった清盛の祖父・正盛が、例の兄・義親を討伐したことで、
源氏に代わる新興武士として存在感を高めることとなる。

正盛はそこまで強くない説

正盛が武勇に秀でているという話はそれまで一切なかった。
そんな彼に悪対馬守と呼ばれ、父譲りの武威を誇る義親を討てたのか、
当時の人々は懐疑的だったという。
そのせいか、義親討伐後も義親を名乗って狼藉を働く者が後を絶たなかった。

平氏・院との協調路線

武で名を上げた父や兄と異なり、
義忠は周囲との融和によって源氏の権威を回復しようとした。
平正盛の娘を娶り、彼の嫡男には自ら烏帽子親となって「忠」の字を与えるなど、
新興の伊勢平氏を相手に良好な関係を築いた。

さらには摂関家と折り合いをつけつつ、院政にも参加するという巧みな政治活動により、
義忠は若年ながら「天下栄名」と評されたという。
……しかし。

源義忠暗殺事件

父・義家ほどの武威はなく、平氏や院とは政治的に迎合することで勢力を保つ。
そんな義忠のやり方を一部の親族はよく思わなかったらしい。

家督を継承して3年。
河内源氏が権勢を取り戻しかけていた中、義忠は何者かによって暗殺された。享年26歳。
義家の遺言から、義親の子・為義が後継に立てられるものの、彼は14歳とまだ幼かった。
周囲の親族も嫡流を支えるどころか、自分たちの利益を巡って相争うばかりだった。

義忠暗殺の犯人

現場に残された鞘から、当初は義忠の叔父にあたる源義綱の三男、義明とされた。
義綱と義明らは冤罪を主張するも、為義と彼を支援する別の叔父・源義光によって討たれた。
ところが後になって真犯人は義光と発覚。こうした一族同士の暗闘が凋落に拍車をかけた。

義忠の子孫たち

為義が棟梁となったことで、義忠の系統は河内源氏嫡流から外れてしまうが、
義忠の子・河内経国は後に源義朝(為義の子)と源義国の間を調停するなど、
源氏同士の相克回避に活躍している。

とは言え、平氏の血が混じったことから、
源氏でも平氏でも主流となれないまま歴史の表舞台から姿を消していく。
彼が天寿を全うしていたら源氏は凋落せず、後の源平合戦も無かったかもしれない。

ちなみに源義光の死因として、病死の他、経国に討ち取られたというものがある。