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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義朝

人物(清和源氏)

源義朝まとめ

・為義の長男。少年期に関東に下向したことから、父や兄弟とは疎遠になる。
保元の乱では父や兄弟と対立。勝利後、泣く泣くこれを斬る。
・その後、保元の乱で共に戦った平清盛と対立。平治の乱にて破れ、非業の死を遂げる。

基本データ

生年:1123年
没年:1160年(享年37歳)

主な家族

父:源為義
兄弟:義賢(長弟)、義広(次弟)、頼賢(三弟)、為朝(七弟)、行家(九弟)他
子:義平(長男)、朝長(次男)、頼朝(三男)、範頼(六男)、全成(七男)義経(九男)他

人間関係

源為義:なんで親父はダメなの?なんで俺の邪魔すんの?なんで親父は俺に斬られてしまうん?
源為朝:噂通りのやばい弟。流石の俺も引くレベル。
平清盛:永遠のライバル…と言いたいが、流石にちょっとだけ無理があるかもしれない。
信西:クソインテリ坊主。絶許。
藤原信頼:史上最強の無能。

源氏の御曹司、関東の大地で荒ぶる

武士と言えば河内源氏!……という時代はとうの昔。
一族の内紛と父・為義の無能さによって、すっかり落ちぶれた頃に源義朝は誕生した。

長男でありながら義朝が父と過ごした時期は短く、
少年期から無官のまま関東へと下向させられている。
義賢以降の弟たちはみな京で過ごす中、義朝は上総氏など在地豪族の庇護下で成長した。

義賢が割と早く帯刀先生に任じられていることを踏まえると、
当初、義朝は後継者として扱われなかった可能性も高い。

元祖湘南モテ男

関東に降り立った義朝は、荘園における豪族間の争いに介入しながら、
三浦氏、波多野氏、大庭氏といった地元豪族を傘下に収めていった。
中でも長男・義平の母は三浦氏、次男・朝長の母は波多野氏とされ、
積極的に婚姻関係を結んでいたことが窺われる。プレイボーイですね。

こうして義朝は相模国を中心に一大勢力を築き上げた。
一方、以前より関東に根付いていた他の源氏こと、
源義国との競合関係を生み出すこととなる。

荒加賀入道・義国との衝突&和解

義国は義朝にとって、祖父・義親の弟=大叔父にあたり、
足利(茨城県)に本拠を構えていた。
血の気が多い性格で、少年期は自らの叔父と常陸国を巡って戦っている。

そんなめんどくさいジジイと一触即発の事態となった義朝。
しかし、義国の下にいた河内経国が両者を仲介して事なきを得た。
経国は義国の甥であり、義朝にとっては父の従兄弟にあたる。

以降、義国とは同盟を結び、その子・義康とは相婿の関係になるなど、
南関東において盤石の地盤を築いた末、20代前半で京に帰還することとなる。

源氏の再興と一族の相剋

戻ってきた義朝は、妻・由良御前(三男・頼朝の母)のツテで鳥羽院に仕えた。
妻の実家が院近臣であることを背景に、義朝は順調な出世を重ねていく。
31歳の時にはついに従五位下・下野守に任じられ、河内源氏悲願の受領職へと返り咲いた。

しかし、この出世には鳥羽院による摂関家への牽制という狙いがあり、
摂関家を後ろ盾とする父・為義らとの関係悪化も意味した。

大蔵合戦

義朝の抜擢を父・為義は歓迎しなかった。
それどころか弟・義賢を関東に派遣し、義朝の勢力を削ぎにかかったのである。
が。関東に残っていた義朝の長男・義平が、
義賢の館に攻め入って華麗にこれを討ち取ってしまう。親族殺しは源氏のお家芸ですね。
為義のイヤガラセはあっさりと終わりを告げた。

大蔵合戦と呼ばれるこの戦は、京では全く話題にならなかった。
別に田舎の戦だから無視された、というわけではない。
当時、アンチ摂関家だった藤原信頼が武蔵守を務めていた為、
これをもみ消し or 黙認していたのではないかという説がある。

保元の乱

河内源氏では義朝と為義らが対立する一方、
伊勢平氏や藤原摂関家天皇家すらも身内同士の勢力争いが激化していた。
やがて、敵を作りすぎて追い詰められた藤原頼長崇徳上皇を担いで挙兵する。
義朝33歳の時である。

父や弟たちが崇徳上皇方で参戦する中、
一人、後白河天皇方についた義朝は、平清盛源義康と共に200騎を率いて出陣した。
義朝は作戦会議の場で先制攻撃を主張。迷う藤原忠通を押し切ったという。

兵力では圧倒的に優位な天皇方だったが、
開戦直後は弟・為朝の剛弓により苦戦を強いられる。
保元物語」では乱戦の中、義朝が為朝に言い負かされた挙句、
弓で散々狙撃されるなど、乱暴者の弟に手を焼く様子が描かれている。

戦況の膠着を打開すべく義朝はさらに火攻めを進言。
これにより崇徳上皇方は総崩れとなり敗走する。
藤原頼長は首に重傷を負って死亡し、崇徳上皇も出頭した。

残されたのは、ぼっちの棟梁

義朝の戦功は高く評価された。
左馬頭に任じられ、内昇殿まで許されるという破格の待遇である。
ライバルとされる平清盛に比べればまだまだ大きな差があるものの、
清盛が幼少期から高い位に就いていたのに対し、
義朝は京に戻るまで無官だったことを考えれば、十分すぎる出世だった。

しかし、義朝の下に出頭した父や弟たちへの処分は過酷なものだった。

薬子の変以来、400年ぶりに死刑が復活し、
崇徳上皇側に加担した武士はことごとく死罪が言い渡されたのである。

義朝は自らの戦功と引き換えに親兄弟(※逃亡中の為朝除く)の助命を嘆願するも、
彼らを謀反人と断じた朝廷に受け入れられることはなかった。
かくして義朝は泣く泣く船岡山にて父や兄弟たちを斬首した。

死罪の復活には、当代一の学者とされた信西が関わっていた。
摂関家の弱体化を推し進める信西は、その手駒である為義らの排除を企んだのである。
義朝が信西に強い遺恨を抱くのは当然のことだった。

平治の乱

保元の乱後。権力を握ったのはその信西だった。
彼は雅仁親王こと後白河天皇の教育係であり、
一時は出世の見込めない自らの出自に絶望して出家したものの、
なんだかんだで政敵の排除に成功しちゃった腹黒学者である。

信西後白河院の信任下で新しい政策を次々と打ち上げ、
要職に自分の息子たちを就けた。
しかし、こうした急進的な動きが反発を食らうのも世の常。
当時の朝廷は後白河院政派と二条親政派に分かれていたが、
なんとその両方に反信西の動きが芽生え、結託してしまったのである。

信西打倒クーデター

義朝は院政派&アンチ信西の筆頭・藤原信頼と手を組んだ。
信頼は院近臣の中でも武士の力に着目し、異母兄を陸奥守&鎮守府将軍として派遣するなど、
東国の武士勢力に対して強い影響力を誇っていた。
又、信頼自身も武蔵守時代に義朝を支援しており(※大蔵合戦)、
朝廷における義朝の出世にも大きく寄与している。

信西の排除には、京最大の軍事貴族平清盛が目障りだった。
信西平氏と密接な関係を築き、その武力をもって自らの改革を推し進めていた。
清盛自身は政治抗争に対して中立の立場を示していたが、迂闊な挙兵は憚られた。

そこで信頼は清盛が熊野詣で京を留守にした隙を狙う。
義朝の他、源光保、源頼政といった武士たちを引き込み、三条殿を襲撃させたのである。
信西は逃亡するも、その後潜伏がバレて殺害された。

清盛の帰還

いざ信西を倒したのはよいが、その後が問題だった。
政権奪取に成功した信頼は独断専行が高じて反感を買いつつあったし、
信西派は元々院政派と親政派によって構成されていたから、
共通の敵がいなくなれば空中分解するのは当然のことである。

そんな中、義朝が最も懸念していたのは清盛の存在である。
集めた兵はクーデターを起こす程度の小規模な人数に過ぎない。
しかし信頼は自らの嫡男と清盛の娘が婚姻関係にあることを理由に、義朝の不安を笑った。
信西が排除された以上、清盛も味方になると踏んでいたのだろう。

京に帰還した清盛は、信頼に名簿を差し出して恭順の意を示し、
婿に迎えていた信頼の嫡男を送り返した。
信頼はこれを素直に喜んだが、
義朝は警護の郎党たちがやたら猛者揃いであったことを警戒したという。

義朝の危惧は正しかった。
水面下で反信頼派の貴族たちが清盛と連携を取り、
二条天皇六波羅にある清盛の館に移動させる計画を進めていたのである。

馬鹿な上司を持つ不幸

計画はスムーズに行われた。
内裏を出た二条天皇六波羅に入り、その報せを聞いた後白河法皇仁和寺に脱出した。
その話を聞いた摂関家含む公卿たちはみな六波羅に集まっていく。
帝という大義名分を失った義朝らは一転して賊軍となった。
爆ギレした義朝は信頼を「日本一の不覚人」と罵倒している。

この状況に源頼政をはじめ多くの武士たちが信頼を見切る中、
引くに引けない義朝は信頼方として渋々出陣した。

内裏を巻き込みたくない清盛の狙いにより、六波羅付近が戦場となった。
引き続き離反者を出すなど、グダグダな信頼方において義朝は激闘を繰り広げるも、
官軍の圧倒的兵力を前に敗走を余儀なくされる。

裏切りと死

その後、京を落ち延びた義朝は一族・家臣を引き連れて東海道を下った。
長男・義平は途中から別行動を取り、京に潜伏して清盛暗殺を目論むも失敗する。
次男・朝長は落ち武者狩りの中で深手を負い、死亡。
三男・頼朝は一行からはぐれて捕縛される。本来処刑されるところを、
清盛の母・池禅尼が助命を嘆願したことから伊豆への配流に留められた。

義朝は馬を失い、裸足で尾張国(愛知県)まで落ち延びると、
乳兄弟の鎌田正清と共に正清の舅・長田忠致の元に身を寄せた。
年来の家人ながら平家の恩賞に目がくらんだ忠致は、風呂場にて義朝を騙し討ちにする。
保元の乱からわずか3年後のことである。

義朝の墓所野間大坊という寺にあり、
今際の際に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされることから、
今もたくさんの木太刀が供えられているという。

義朝の死をもって、河内源氏は中央から姿を消した。
世は平家全盛の時代を迎える。