歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義綱

源義綱まとめ

・通称、加茂次郎。兄・義家とはあまり仲が良くないとされる。
・兄を超えて出世をするも、延暦寺と揉めてからは仏罰を恐れた朝廷から遠ざけられる。
・甥殺しの疑いをかけられた末に追討を受け、息子共々非業の死を遂げる。

基本データ

生年:1042年
没年:1132年(享年:90歳)

主な家族

父:源頼義
兄弟:義家(同母兄)、義光(同母弟)、他
子:義明(三男)他

人間関係

源義家:なんだか反りの合わない兄貴。
源義光:兄貴と仲の良い弟。何を考えているのかわからない。
源義忠:殺してないよ?ほんとだよ!?

実力伯仲、河内源氏の次男坊

前九年の役では父に従い戦ったが、後三年の役では参戦していない。
(弟・義光は官位を返上してまで、義家のところに駆けつけている)
後に双方の郎党が争いを起こすなど、兄・義家とは微妙な仲だったとされる。

兄よりも早い出世

後三年の役を私闘扱いにされた義家が官位を据え置かれる中、義綱は順調に昇進していく。
やがて美濃守に就任し、官位の上で兄を超えてしまう。義綱51歳、義家54歳の時である。

延暦寺とのトラブル

美濃にある延暦寺の荘園で寺側と争いになり、一人の僧が死んだ。
延暦寺はこれに怒り、義綱の配流を求めて強訴に至る。
義綱は兵を出してこれを撃退するが、その際に神輿や神人に被害が出た為、寺はこれを呪詛した。
事件の当事者でもあった関白・藤原師通が38歳で若死にしたのは仏罰が当たった為と囁かれ、
以降、義綱の出世はなくなった。

強訴(ごうそ)とは?

当時の寺社は朝廷や幕府の裁定に不満を持つと、
神輿を持ち出し、仏の権威を誇示して集団で訴えるという行為をしていた。
白河院は思い通りにならないものとして、
賀茂川の水
・すごろくの目
そして、・山法師(武装した僧兵)を挙げたという。

兄の死、そして甥殺しの冤罪

河内源氏は内外に揉め事を抱えていた。
義綱の甥・義親が九州で狼藉を働き、また別の甥・義国は常陸国で弟の義光と争った。
そんな中で兄・義家が病没すると、その後を彼の三男・義忠が継いだ。

しかし、義忠は家督継承後わずか3年で暗殺されてしまう。
現場に遺されていたのは、義綱の三男・義明の刀だった。

義綱父子はこの件を濡れ衣として否定。
抗議として甲賀山へと立て篭ったが、朝廷は義忠の後を継いだ為義に義綱一族の追討令を出す。
為義はまだ幼かったが、義綱の弟・義光が助力することで義綱方は次々と撃破されていった。
彼の息子たちは6人全員が自害。義綱自身は捕縛され、佐渡に流された。
それから20年以上後、再び為義の追討を受けた義綱は最終的に自害へと追い込まれている。

河内源氏同士が相剋する一連の騒動は、
義忠と義綱を排除することで、棟梁の座を手に入れようとした義光の陰謀だった。
義忠の死と義綱一族の粛清により、河内源氏は凋落の一途を辿る。