歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

前九年の役

前九年の役まとめ

陸奥の奥六郡を支配し、半ば独立勢力と化していた安倍氏の反乱。
・武勇で知られた源頼義陸奥守&鎮守府将軍として派遣されるも、鎮圧に手間取る。
・出羽の清原氏に平身低頭で参陣を乞い、ようやく安倍氏を討伐する。

主な関係者たち

安倍貞任:色白ぽっちゃり系男子で奥六郡のヤンキー。善戦するも、清原氏の参戦で敗北する。
安倍頼時:貞任の父。当初は頼義に服従するも、騒ぎを起こした貞任の引き渡しを拒否する。
藤原経清:頼時の娘婿。元は頼義の幕僚だが、平永衡の件で不安が募った末、安倍氏側へと寝返る。
平永衡:頼時の娘婿。兜が派手なだけで内通を疑われ、上司に粛清された不幸な人。
源頼義平忠常の乱で名を上げた源氏の棟梁。貞任に苦戦を強いられる。部下の扱いが若干へた。
清原光頼:頼義の機嫌取りで重い腰を上げた出羽の豪族。彼の参戦が戦況を覆す。
清原武則:光頼の弟。兄の名代として参戦する。
藤原登任藤原南家出身の冴えない貴族。安倍氏に噛み付き、返り討ちに遭う。

安倍氏について

陸奥国の豪族・安倍氏は朝廷に対して半ば独立勢力を築いていた。
京の人もまた安倍氏を「東夷」と呼び、辺境の蛮族として扱った。
過去において平将門らの挙兵は「乱」とされたのに対し、
安倍氏のそれが「前九年の」と呼ばれる理由でもある。

前哨戦?鬼切部の戦い

そんな安倍氏は朝廷への納税をサボるようになった。
当時、陸奥守だった藤原登任は討伐軍を起こすものの、瞬殺された末に更迭される。
朝貢をサボる&辺境を武力で荒らすというのは、蛮族の定番ですね。

しかし、後任の陸奥守&鎮守府将軍として、源氏の棟梁・源頼義が派遣される。
その昔、父と共に平忠常の乱を鎮圧してから、彼の武威は広く東国に知れ渡っていた。

一時休戦、そして阿久利川事件

頼義が着任すると、安倍氏の当主・頼良(よりよし)は戦わずしてこれに服従した。
そして自らの名が頼義と同音であることを憚り、「頼時」と改名している。
安倍氏の臣従に加え、朝廷の恩赦もタイミング良く重なったことから、罪は一旦赦された。

しかし陸奥守の任期が終わる頃。
饗応を受けて帰途についた頼義は、阿久利川で陣を敷いた。
そこに密使が訪れ、部下・藤原光貞の陣が何者かに荒らされたという報せが届けられる。

光貞曰く。頼時の嫡男・貞任が光貞の妹を妻に求めてきたが、
光貞は安倍氏のような賤しい蛮族に妹はやれぬと断った為、逆恨みしたのではないかと言う。
断るにしても、もう少しマシな言い回しはなかったのかと問いたい。

とは言え、貞任は超ド田舎のヤンキー兼、権力者の跡取り息子というポジション。
しかも色白で長身&肥満という、結構個性的な外見だったと言われている……。

これを聞いた頼義は、頼時に貞任を出頭させるよう命じた。
しかし「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」として、頼時はこれを拒否。
再び陸奥は戦火に見舞われることとなる。

阿久利川事件・陰謀説

・事件の犯人が貞任であるという確固たる証拠がない(光貞の報告のみ)。
・これまで服従してきた安倍氏が今更乱を起こす動機は薄い。
こうした点から、任期満了前に安倍氏の討伐を求めた頼義や
安倍氏勢力の陰謀ではないか、という説も根強い。

平永衡の粛清と藤原経清の出奔

安倍頼時の娘婿・平永衡藤原経清は当初頼義側で参陣していたが、
永衡は讒言から内通を疑われて殺害され、これを見た経清は安倍氏に寝返っている。

前九年の役、開幕

手始めに頼義は奥六郡の北部を支配する安倍富忠(頼時の従兄弟とも)を調略。
挟撃を恐れた頼時は、思いとどまるよう説得に赴くものの、
富忠の配した伏兵によって戦死してしまう。以降、安倍軍の指揮は貞任が継いだ。

頼義は頼時討伐を報告して恩賞と増援を要求するものの、
朝廷からは何の音沙汰もなかった。

貞任の奮戦と黄海の戦い

その年の冬、陸奥国黄海にて両軍は激突する。
厳しい雪と食糧不足によって苦しい行軍を強いられた頼義方に対し、
数に勝る貞任方は地の利を活かして圧倒的優位に立った。
戦いの結果、頼義側の有力な家人が多数討ち取られ、安倍氏の勢力が拡大した。

官軍の被害は大きく、一時は頼義が討死したという情報すら飛び交った。
頼義が戦域から辛うじて離脱した時、
供回りにいたのは嫡男・義家を含むわずか6騎だけだったと言う。
以降、官軍は致命的な兵力不足から雌伏を余儀なくされる。

勢いづいた安倍氏は奥六郡の外まで脅かすようになった。
徴税も朝廷公式の赤札ではなく、経清が勝手に発行した白札にて行われるようになる。

この頃。陸奥守の任期切れに伴い、後任の高階経重がやってきた。
京の貴族じゃ頼りにならないと思われたのか、
郡司たちはこれを無視して頼義に従ったため、朝廷は頼義を再任させたという。

清原氏の参戦と官軍の反攻

頼義は関東や畿内の武士に参戦を呼びかけるも、
軍事行動を起こすのに十分な戦力は中々整わなかった。
そこで目をつけたのが、出羽に大勢力を持つ清原氏である。

当初、清原氏の総領・光頼は頼義の要請に対して中立の態度をとっていたが、
一応、朝廷の命令を楯にした依頼であり、
さらに「珍しい貢物」を贈られ続けたことから参陣を決意する。
この時の頼義は超土下座級の低姿勢だったとされ、
名符を差し出して臣従の礼をとったという俗説すらある。

光頼は弟・武則に1万の兵を預けて、名代とした。
これにより官軍は数の上でも安倍軍を上回り、大規模な軍事行動が可能になった。
軍団を編成した武則と頼義は、その翌日に難攻不落の小松柵を落として気勢を上げる。

安倍氏の滅亡

一方、安倍軍の采配はことごとく裏目に出た。
長雨で食料不足となった官軍に貞任が奇襲を仕掛けたが、
武則らはこれを逆手にとり、堅守の陣を敷いて撃退している。

やがて官軍は安倍軍の本拠地・厨川柵へと到達した。
厨川柵の防御は固く、攻めあぐねた頼義は火攻めを敢行し、安倍軍を大混乱に陥らせる。
この戦いで多くの者が殺され、捕縛された。

安倍貞任は捕縛されて頼義の前に引き出されたが、既に瀕死の状態だった。
巨体のあまり、盾に乗せて運ばれたきた貞任は、
頼義を一瞥してから息を引き取ったという。享年43歳。
清原氏の参戦からわずか一ヶ月のことである。

藤原経清も捕縛され、怒り心頭の頼義によって鋸挽きの刑に処せられた。

前九年の役、その後

貞任の嫡男をはじめ、多くの安倍一族が処刑される中、
貞任の弟・宗任は降伏して一命をとりとめると伊予国へと流された。
その知略と勇猛さを惜しまれたとも、彼の母親が清原氏の出身だったからともされる。
(政治家の安倍晋三氏は宗任の系譜と言われている)

宗任が都に連行される際、蛮族は花も知らぬだろうと侮った貴族が、
梅の花を見せつけてこれは何かと嘲笑したところ、
「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」
と、歌で応じて驚かせたという。

残される安倍氏の血脈

経清の未亡人は彼との間にできた息子を伴い、清原武貞と再婚している。
本来ならば謀反人の子として処刑されるところだが、
奥六郡を支配するにあたり、旧主・安倍氏を懐柔しておきたいという、
清原氏側の政治的な意図も存在したと思われる。

後にこの息子は武貞の養子として清原清衡と名乗る。
彼はやがて後三年の役にて最終勝利者となり、奥州藤原氏の礎を作るが、
それはまた別の話。