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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義綱

人物(清和源氏)

源義綱まとめ

・通称、加茂次郎。兄・義家とはあまり仲が良くないとされる。
・兄を超えて出世をするも、延暦寺と揉めてからは仏罰を恐れた朝廷から遠ざけられる。
・甥殺しの疑いをかけられた末に追討を受け、息子共々非業の死を遂げる。

基本データ

生年:1042年
没年:1132年(享年:90歳)

主な家族

父:源頼義
兄弟:義家(同母兄)、義光(同母弟)、他
子:義明(三男)他

人間関係

源義家:なんだか反りの合わない兄貴。
源義光:兄貴と仲の良い弟。何を考えているのかわからない。
源義忠:殺してないよ?ほんとだよ!?

実力伯仲、河内源氏の次男坊

前九年の役では父に従い戦ったが、後三年の役では参戦していない。
(弟・義光は官位を返上してまで、義家のところに駆けつけている)
後に双方の郎党が争いを起こすなど、兄・義家とは微妙な仲だったとされる。

兄よりも早い出世

後三年の役を私闘扱いにされた義家が官位を据え置かれる中、義綱は順調に昇進していく。
やがて美濃守に就任し、官位の上で兄を超えてしまう。義綱51歳、義家54歳の時である。

延暦寺とのトラブル

美濃にある延暦寺の荘園で寺側と争いになり、一人の僧が死んだ。
延暦寺はこれに怒り、義綱の配流を求めて強訴に至る。
義綱は兵を出してこれを撃退するが、その際に神輿や神人に被害が出た為、寺はこれを呪詛した。
事件の当事者でもあった関白・藤原師通が38歳で若死にしたのは仏罰が当たった為と囁かれ、
以降、義綱の出世はなくなった。

強訴(ごうそ)とは?

当時の寺社は朝廷や幕府の裁定に不満を持つと、
神輿を持ち出し、仏の権威を誇示して集団で訴えるという行為をしていた。
白河院は思い通りにならないものとして、
賀茂川の水
・すごろくの目
そして、・山法師(武装した僧兵)を挙げたという。

兄の死、そして甥殺しの冤罪

河内源氏は内外に揉め事を抱えていた。
義綱の甥・義親が九州で狼藉を働き、また別の甥・義国は常陸国で弟の義光と争った。
そんな中で兄・義家が病没すると、その後を彼の三男・義忠が継いだ。

しかし、義忠は家督継承後わずか3年で暗殺されてしまう。
現場に遺されていたのは、義綱の三男・義明の刀だった。

義綱父子はこの件を濡れ衣として否定。
抗議として甲賀山へと立て篭ったが、朝廷は義忠の後を継いだ為義に義綱一族の追討令を出す。
為義はまだ幼かったが、義綱の弟・義光が助力することで義綱方は次々と撃破されていった。
彼の息子たちは6人全員が自害。義綱自身は捕縛され、佐渡に流された。
それから20年以上後、再び為義の追討を受けた義綱は最終的に自害へと追い込まれている。

河内源氏同士が相剋する一連の騒動は、
義忠と義綱を排除することで、棟梁の座を手に入れようとした義光の陰謀だった。
義忠の死と義綱一族の粛清により、河内源氏は凋落の一途を辿る。

源義忠

人物(清和源氏)

源義忠まとめ

・義家の死後、源氏の棟梁となった若きホープ。
伊勢平氏白河院とも協調姿勢を取り、河内源氏を支える。
・源氏の棟梁を狙った義光の陰謀によって暗殺される。

基本データ

生年:1083年
没年:1109年(享年:26歳)

主な家族

父:源義家
兄弟:義親(次兄・異母)、義国(長弟・同母)、他
子:河内経国(長男)、他
舅:平正盛

人間関係

源義親:ケンカの強い兄。自重しろ。
源義国:ケンカの強い弟。自重しろ。
平正盛:兄の仇だけど、舅。
源義光:俺の仇。

若くして散った河内源氏の良心

父・義家の死後、わずか23歳で家督を継ぐ。
長兄・義宗は若くして亡くなり、次兄・義親は対馬守に任じられるも、
九州で狼藉を働いたことでお尋ね者となってしまう。
同母弟の義国も気性が荒く、常陸国で叔父・義光と争った末、ともに捕縛命令を受けている

義忠がどの時期から後継者と目されるようになったかは不明だが、
河内守に任官した辺り、比較的若い頃から嫡男の扱いを受けているようだ。
(兄・義親は対馬守、弟・義国は加賀介だが、どちらも格下である)
かなり若年での任官だが、当時は父・義家が健在であり、院の懐柔策だったと見てよい。

河内守は受領の中でも要職で、河内源氏で任じられたのは義忠が最後である。

新興武士勢力・伊勢平氏

義家の死後、河内源氏は明らかな衰退期に入っていた。
河内源氏は元々摂関家と縁深かったが、当時政治の中枢を握っていたのは白河院だった。
そして院が義家を引き立てていたのは、公卿への牽制もあったが、
何よりその力を恐れていたからである。故に義家が亡くなった後は冷遇しかなかった。

源氏に代わって院がテコ入れしたのは、後に平清盛を輩出する伊勢平氏である。
それまで無名だった清盛の祖父・正盛が、例の兄・義親を討伐したことで、
源氏に代わる新興武士として存在感を高めることとなる。

正盛はそこまで強くない説

正盛が武勇に秀でているという話はそれまで一切なかった。
そんな彼に悪対馬守と呼ばれ、父譲りの武威を誇る義親を討てたのか、
当時の人々は懐疑的だったという。
そのせいか、義親討伐後も義親を名乗って狼藉を働く者が後を絶たなかった。

平氏・院との協調路線

武で名を上げた父や兄と異なり、
義忠は周囲との融和によって源氏の権威を回復しようとした。
平正盛の娘を娶り、彼の嫡男には自ら烏帽子親となって「忠」の字を与えるなど、
新興の伊勢平氏を相手に良好な関係を築いた。

さらには摂関家と折り合いをつけつつ、院政にも参加するという巧みな政治活動により、
義忠は若年ながら「天下栄名」と評されたという。
……しかし。

源義忠暗殺事件

父・義家ほどの武威はなく、平氏や院とは政治的に迎合することで勢力を保つ。
そんな義忠のやり方を一部の親族はよく思わなかったらしい。

家督を継承して3年。
河内源氏が権勢を取り戻しかけていた中、義忠は何者かによって暗殺された。享年26歳。
義家の遺言から、義親の子・為義が後継に立てられるものの、彼は14歳とまだ幼かった。
周囲の親族も嫡流を支えるどころか、自分たちの利益を巡って相争うばかりだった。

義忠暗殺の犯人

現場に残された鞘から、当初は義忠の叔父にあたる源義綱の三男、義明とされた。
義綱と義明らは冤罪を主張するも、為義と彼を支援する別の叔父・源義光によって討たれた。
ところが後になって真犯人は義光と発覚。こうした一族同士の暗闘が凋落に拍車をかけた。

義忠の子孫たち

為義が棟梁となったことで、義忠の系統は河内源氏嫡流から外れてしまうが、
義忠の子・河内経国は後に源義朝(為義の子)と源義国の間を調停するなど、
源氏同士の相克回避に活躍している。

とは言え、平氏の血が混じったことから、
源氏でも平氏でも主流となれないまま歴史の表舞台から姿を消していく。
彼が天寿を全うしていたら源氏は凋落せず、後の源平合戦も無かったかもしれない。

ちなみに源義光の死因として、病死の他、経国に討ち取られたというものがある。

前九年の役

事件

前九年の役まとめ

陸奥の奥六郡を支配し、半ば独立勢力と化していた安倍氏の反乱。
・武勇で知られた源頼義陸奥守&鎮守府将軍として派遣されるも、鎮圧に手間取る。
・出羽の清原氏に平身低頭で参陣を乞い、ようやく安倍氏を討伐する。

主な関係者たち

安倍貞任:色白ぽっちゃり系男子で奥六郡のヤンキー。善戦するも、清原氏の参戦で敗北する。
安倍頼時:貞任の父。当初は頼義に服従するも、騒ぎを起こした貞任の引き渡しを拒否する。
藤原経清:頼時の娘婿。元は頼義の幕僚だが、平永衡の件で不安が募った末、安倍氏側へと寝返る。
平永衡:頼時の娘婿。兜が派手なだけで内通を疑われ、上司に粛清された不幸な人。
源頼義平忠常の乱で名を上げた源氏の棟梁。貞任に苦戦を強いられる。部下の扱いが若干へた。
清原光頼:頼義の機嫌取りで重い腰を上げた出羽の豪族。彼の参戦が戦況を覆す。
清原武則:光頼の弟。兄の名代として参戦する。
藤原登任藤原南家出身の冴えない貴族。安倍氏に噛み付き、返り討ちに遭う。

安倍氏について

陸奥国の豪族・安倍氏は朝廷に対して半ば独立勢力を築いていた。
京の人もまた安倍氏を「東夷」と呼び、辺境の蛮族として扱った。
過去において平将門らの挙兵は「乱」とされたのに対し、
安倍氏のそれが「前九年の」と呼ばれる理由でもある。

前哨戦?鬼切部の戦い

そんな安倍氏は朝廷への納税をサボるようになった。
当時、陸奥守だった藤原登任は討伐軍を起こすものの、瞬殺された末に更迭される。
朝貢をサボる&辺境を武力で荒らすというのは、蛮族の定番ですね。

しかし、後任の陸奥守&鎮守府将軍として、源氏の棟梁・源頼義が派遣される。
その昔、父と共に平忠常の乱を鎮圧してから、彼の武威は広く東国に知れ渡っていた。

一時休戦、そして阿久利川事件

頼義が着任すると、安倍氏の当主・頼良(よりよし)は戦わずしてこれに服従した。
そして自らの名が頼義と同音であることを憚り、「頼時」と改名している。
安倍氏の臣従に加え、朝廷の恩赦もタイミング良く重なったことから、罪は一旦赦された。

しかし陸奥守の任期が終わる頃。
饗応を受けて帰途についた頼義は、阿久利川で陣を敷いた。
そこに密使が訪れ、部下・藤原光貞の陣が何者かに荒らされたという報せが届けられる。

光貞曰く。頼時の嫡男・貞任が光貞の妹を妻に求めてきたが、
光貞は安倍氏のような賤しい蛮族に妹はやれぬと断った為、逆恨みしたのではないかと言う。
断るにしても、もう少しマシな言い回しはなかったのかと問いたい。

とは言え、貞任は超ド田舎のヤンキー兼、権力者の跡取り息子というポジション。
しかも色白で長身&肥満という、結構個性的な外見だったと言われている……。

これを聞いた頼義は、頼時に貞任を出頭させるよう命じた。
しかし「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」として、頼時はこれを拒否。
再び陸奥は戦火に見舞われることとなる。

阿久利川事件・陰謀説

・事件の犯人が貞任であるという確固たる証拠がない(光貞の報告のみ)。
・これまで服従してきた安倍氏が今更乱を起こす動機は薄い。
こうした点から、任期満了前に安倍氏の討伐を求めた頼義や
安倍氏勢力の陰謀ではないか、という説も根強い。

平永衡の粛清と藤原経清の出奔

安倍頼時の娘婿・平永衡藤原経清は当初頼義側で参陣していたが、
永衡は讒言から内通を疑われて殺害され、これを見た経清は安倍氏に寝返っている。

前九年の役、開幕

手始めに頼義は奥六郡の北部を支配する安倍富忠(頼時の従兄弟とも)を調略。
挟撃を恐れた頼時は、思いとどまるよう説得に赴くものの、
富忠の配した伏兵によって戦死してしまう。以降、安倍軍の指揮は貞任が継いだ。

頼義は頼時討伐を報告して恩賞と増援を要求するものの、
朝廷からは何の音沙汰もなかった。

貞任の奮戦と黄海の戦い

その年の冬、陸奥国黄海にて両軍は激突する。
厳しい雪と食糧不足によって苦しい行軍を強いられた頼義方に対し、
数に勝る貞任方は地の利を活かして圧倒的優位に立った。
戦いの結果、頼義側の有力な家人が多数討ち取られ、安倍氏の勢力が拡大した。

官軍の被害は大きく、一時は頼義が討死したという情報すら飛び交った。
頼義が戦域から辛うじて離脱した時、
供回りにいたのは嫡男・義家を含むわずか6騎だけだったと言う。
以降、官軍は致命的な兵力不足から雌伏を余儀なくされる。

勢いづいた安倍氏は奥六郡の外まで脅かすようになった。
徴税も朝廷公式の赤札ではなく、経清が勝手に発行した白札にて行われるようになる。

この頃。陸奥守の任期切れに伴い、後任の高階経重がやってきた。
京の貴族じゃ頼りにならないと思われたのか、
郡司たちはこれを無視して頼義に従ったため、朝廷は頼義を再任させたという。

清原氏の参戦と官軍の反攻

頼義は関東や畿内の武士に参戦を呼びかけるも、
軍事行動を起こすのに十分な戦力は中々整わなかった。
そこで目をつけたのが、出羽に大勢力を持つ清原氏である。

当初、清原氏の総領・光頼は頼義の要請に対して中立の態度をとっていたが、
一応、朝廷の命令を楯にした依頼であり、
さらに「珍しい貢物」を贈られ続けたことから参陣を決意する。
この時の頼義は超土下座級の低姿勢だったとされ、
名符を差し出して臣従の礼をとったという俗説すらある。

光頼は弟・武則に1万の兵を預けて、名代とした。
これにより官軍は数の上でも安倍軍を上回り、大規模な軍事行動が可能になった。
軍団を編成した武則と頼義は、その翌日に難攻不落の小松柵を落として気勢を上げる。

安倍氏の滅亡

一方、安倍軍の采配はことごとく裏目に出た。
長雨で食料不足となった官軍に貞任が奇襲を仕掛けたが、
武則らはこれを逆手にとり、堅守の陣を敷いて撃退している。

やがて官軍は安倍軍の本拠地・厨川柵へと到達した。
厨川柵の防御は固く、攻めあぐねた頼義は火攻めを敢行し、安倍軍を大混乱に陥らせる。
この戦いで多くの者が殺され、捕縛された。

安倍貞任は捕縛されて頼義の前に引き出されたが、既に瀕死の状態だった。
巨体のあまり、盾に乗せて運ばれたきた貞任は、
頼義を一瞥してから息を引き取ったという。享年43歳。
清原氏の参戦からわずか一ヶ月のことである。

藤原経清も捕縛され、怒り心頭の頼義によって鋸挽きの刑に処せられた。

前九年の役、その後

貞任の嫡男をはじめ、多くの安倍一族が処刑される中、
貞任の弟・宗任は降伏して一命をとりとめると伊予国へと流された。
その知略と勇猛さを惜しまれたとも、彼の母親が清原氏の出身だったからともされる。
(政治家の安倍晋三氏は宗任の系譜と言われている)

宗任が都に連行される際、蛮族は花も知らぬだろうと侮った貴族が、
梅の花を見せつけてこれは何かと嘲笑したところ、
「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」
と、歌で応じて驚かせたという。

残される安倍氏の血脈

経清の未亡人は彼との間にできた息子を伴い、清原武貞と再婚している。
本来ならば謀反人の子として処刑されるところだが、
奥六郡を支配するにあたり、旧主・安倍氏を懐柔しておきたいという、
清原氏側の政治的な意図も存在したと思われる。

後にこの息子は武貞の養子として清原清衡と名乗る。
彼はやがて後三年の役にて最終勝利者となり、奥州藤原氏の礎を作るが、
それはまた別の話。

源義家

人物(清和源氏)

源義家まとめ

前九年の役後三年の役で活躍し、源氏中興の祖と呼ばれる。通称、八幡太郎
・部下を大切にすることから人望高く、それ故に白河院や宮廷貴族から警戒される。
・弟や息子らの内紛に苦悩しつつ死去。以降、河内源氏は凋落の一途を辿る。

基本データ

生年:1039年
没年:1106年(享年:67歳)

主な家族

父:源頼義
兄弟:義綱(長弟)、義光(次弟)、他
子:義親(次男)、義忠(三男)、義国(四男)、他

人間関係

清原清衡:清原家の異分子。なんだかんだで協力することに。
清原家衡:俺の調停に文句をつけたクソ野郎。
源義綱:イラッとする上の弟。
源義親源義国:乱暴者の息子たち。育て方間違えたのかな。
源義忠:常識人で頼みの三男。
白河帝:煮ても焼いても食えない上司。

源氏中興の祖、東国を仕切る

摂関政治から院政へと移り変わる時代に台頭し、
足利尊氏源頼朝の先祖にあたる新興武士勢力の象徴。
前九年の役後三年の役という東国での大乱を鎮圧し、武家源氏の礎を築いた。

前九年の役

父・頼義に従って参戦。黄海の戦いでは弱冠13歳ながら、獅子奮迅の活躍をする。
戦後は出羽守に任じられるものの、その地は清原氏の本拠だった。
清原氏には前九年の折に平身低頭で参戦を依頼した経緯がある。
出羽における清原氏の影響力が強かったのか、あるいはナメられていたのか。
なかなか思うような任国経営はできなかったらしい。

ちなみに清原氏の一族からは、
「お前の親父が超土下座で頼み込んだから、参戦して差し上げたんだよwww
やっぱ貞任に勝てたのって、俺らのおかげじゃんwww河内源氏wwwプゲラwww 」
みたいなことを言われて激怒した記録も残っている。

白河天皇のSP

その後、犯罪者の追討や悪僧拿捕などに活躍。
白河帝が石清水八幡宮行幸する際、義家は弟・義綱と共に護衛を務めている。
その際、束帯という正式な服装ではなく、戦いやすい常服で武装して警護にあたったという。
当時の人は前例なきことと記しているが、
天皇直属の親衛隊という発想は、後に言う「北面の武士」の原型となっている。

後三年の役・前半

義家が44歳の時、因縁の陸奥守へと任じられた。
そして、それを狙ったようなタイミングで清原氏の間に内紛が起きる。

清原氏の長男・真衡とその養子・成衡に対し、
次男・清衡と三男・家衡、三兄弟の叔父にあたる吉彦秀武が対抗するという構図である。
成衡の妻が義家の妹だったこともあり、義家と国府は当初真衡側に付いた。
戦いは真衡の優位で進み、清衡と家衡はボコボコにされた末に降伏した。
ところが行軍中の真衡も病で急死してしまう。

養子のせいで相続がブラックになる清原氏

養子とは言え、成衡はそもそも平氏の出身で、清原氏嫡流からは遠い存在だった。
義家は支配者のいなくなった奥六郡を、
清衡と家衡で半分ずつに分けて統治せよ、というジャッジを下す。

ところがその清衡もまた養子であり、清原氏の血は全く引いていなかったのである。
(清衡の父は前九年の役で頼義に反旗を翻した「逆賊」藤原経清だ。)

後三年の役・後半

武貞の子で、れっきとした清原氏の血を引く家衡はこの裁定を不服とし、
清衡の館を強襲して妻子一族を皆殺しにした。
敗者の分際でつけ上がりやがって……と思ったかはさて置き、義家のメンツは丸潰れである。

不幸中の幸いか、清衡本人は辛うじて逃げ延びていた。
義家は清衡を助ける形で家衡方と戦うことになる。

戦いは攻城戦主体で進むものの、準備不足もあり中々攻略が進まない。
そこで兵糧攻めへと切り替え、数ヶ月後にはこれを敗走させた。
家衡は逃亡中に討ち取られ、残った清衡が本来の姓に戻って「奥州藤原氏」を立ち上げる。
清原氏はここに滅亡し、ようやく乱は終結した。
昔、清原氏に散々ナメられたのも、今となってはいい思い出である。

戦後処理と義家の名声

朝廷は後三年の役を義家の私闘と断じ、陸奥守を解任。恩賞も一切与えなかった。
さらに税金で戦費を賄い、陸奥の名産である砂金の納入が滞ったことも問題視された。
かくしてこれらを返済するまで、義家は新たな官職に就けなくなってしまう。

それでも部下への恩賞として、義家は自らの私財を彼らに分け与えた。
このことは東国における義家、ひいては源氏の名声を高めることとなったが、
同時に上級貴族たちの既得権益を脅かして警戒を招いた。
朝廷は義家に対する荘園の寄進を禁じ、河内源氏嫡流に対する抑圧策を取るようになる。

戦闘民族・河内源氏の相克

義家の後半生は気苦労の絶えないものだった。
その名声を恐れた朝廷からの嫌がらせに加え、上の弟はやたら反抗的、
さらに息子たちはあちこちで揉め事を起こすという有様である。

義綱の出世

義家が冷や飯を食わされる間、今度は弟・義綱が重用されるようになる。
義綱は後三年の役に参戦しておらず、この二人はどうも不仲だったと見られる。
河内の所領にて双方の郎党が諍いを起こした時は、互いに兵を構えるところまで行くものの、
関白・藤原師実の仲裁でなんとか事なきを得ている。

白河院のテコ入れ

後三年の役から10年後。当時の借金を返済した(とされる)義家は、
白河院の(強引な)推薦によって正四位下に昇進した。
さらに60歳を目前にしてようやく昇殿を許される。

しかし、この昇進は白河院による公卿への牽制という意図も強く、
当時の貴族たちからは反発を買ったとされる。
荘園の拡大によって、義家を代表とする武士勢力が力をつけつつあったものの、
軍事に携わる=「穢れている」という点で、下に見るという風習もまだまだ根強かった。

各地で暴れる息子たち

義家の長男・義宗は早世している。
次男・義親は対馬守に任じられたものの、乱暴狼藉のあまり告発されてしまう。
息子の召還命令を受けた義家は郎党を派遣するものの、
彼は説得どころか義親と一緒になって官吏を殺害するに至る。
業を煮やした朝廷は、遂に実父である義家に義親追討を命じた。

更に四男・義国は常陸国において、義家の次弟・義光と抗争になり、
両者にも捕縛命令が下されてしまう。

苦悩の中、病に倒れた義家は68歳で没する。
三男・義忠がその後を継ぐものの、彼はまだ若年だった。

義家の遺言

家督継承については義忠の「次」についても遺言されており、
義親の子・為義を指名したとされる。

源頼義

人物(清和源氏)

源頼義まとめ

・父と共に平忠常の乱を平定し、若くして名を挙げた源氏の御曹司。
前九年の役で大苦戦するも、清原氏に頭を下げまくって鎮圧にこぎつける。
・朝廷の評価は高く、当時の清和源氏としては極位となる正四位下まで昇進した。

基本データ

生年:988年
没年:1075年(享年:87歳)

主な家族

父:頼信
兄弟:頼清(長弟)、他
子:義家(嫡男・長男)、義綱(次男)、義光(三男)、他
舅:平直方

人間関係

安倍貞任:朝廷の威光に歯向かう不届き者。
藤原経清藤原秀郷の子孫とされる。裏切り者。絶許。
清原武則:先生、出番です。

関東に河内源氏の基盤を築く

父・頼信の長男として、香炉峰の館で生まれる。
頼信は関白・藤原頼通に対して頼義を武者に、弟・頼清を蔵人(官僚)に推挙している。

桓武平氏の婿になる

関東で平忠常の乱が起きた時は、父に従いこれを平定する。
乱の鎮圧に失敗した頼信の前任者・平直方は頼義の武勇に感激し、
自らの娘を嫁がせ、鎌倉の所領や桓武平氏の郎党(坂東平氏)をごっそり譲り渡した。
これにより河内源氏が東国に根付く足がかりとなった。

弟・頼清とは出世競争で差をつけられる

一方、頼清は次々と受領に任じられ、中央政界で出世していく。
彼は信濃に勢力基盤を築き、後の村上氏や波多氏の祖となった。

前九年の役

頼義が齢50を迎えようとする頃、陸奥の奥六郡で騒乱が起きる。
首謀者は安倍一族。朝廷は頼義を鎮守府将軍陸奥守に任じ、乱の平定を命じた。

ところが安倍一族の長・頼時は、頼義が現れると平身低頭で降伏する。
丁度、朝廷の恩赦もあったことで安倍氏の反乱は赦され、
後は陸奥守の任期が平穏に過ぎゆくはず……だった。

安倍貞任、頼義に反抗する!?

任期満了を間近に迎えたある日、
頼義配下の陣が頼時の嫡男・貞任によって荒らされたという報せが入る。
頼義は貞任の引き渡しを要求するが、頼時はこれを拒否。再び反乱が起きることとなる。
(通称:阿久利川事件。ただし、これまで臣従してきた安倍氏が今になって事件を起こす理由はなく、
頼義や反安倍氏の勢力による陰謀ではないかという説も根強い。)

藤原経清平永衡

頼義には藤原経清平永衡という有力な幕僚がいた。
この2人は現地の豪族であり、微妙なことに頼時の娘婿たちでもあった。

ある日、永衡が目立つ兜を被っていたのを、
内通している敵から狙われぬようにするためだ、と讒言する者がいた。
頼義はこの疑いを聞き入れて永衡を誅殺する。

相婿の粛清に疑心暗鬼を抱いた経清は、安倍軍へと出奔してしまう。
経清の裏切りを聞いた頼義は、自分の行動を棚に上げて大層激怒したと言う。
河内源氏の皆様は戦闘力こそ高いものの、人間関係で問題を起こしがちである。

安倍氏のゲリラ戦に苦戦

頼義は乱の序盤で頼時を討ち取るが、後を継いだ貞任に手を焼いた。
朝廷には頼時討伐を報告して増援を要請するものの、恩賞もなければ、援軍もない。
かくして頼義は土地勘のない陸奥で苦戦を強いられることとなる。

黄海の戦い

頼義生涯の危機とも言えるのが、黄海の戦いである。
厳しい風雪と兵糧不足に悩まされた官軍は、兵力で上回る安倍軍によって粉砕された。
この戦いでは多くの家臣が亡くなり、一時は頼義討死の報せすら飛び交ったという。

この後も貞任や経清は陸奥の支配を脅かし、朝廷への税を奪うなど好き勝手に振る舞った。
頼義のメンツは丸つぶれである。

戦況が泥沼化する中、陸奥守の任期が何度か過ぎているものの、
後任の者が任地に行かず逃亡する、やってきても陸奥の役人たちが従わないなどの理由から、
なんだかんだで頼義が再任を続けている。

清原氏の参戦と逆転

頼義はかねてから出羽の大豪族・清原氏に参戦を要請していた。
清原氏の当主・光頼は当初これを渋っていたが、
朝廷の威光を盾にし、珍しい貢物でさんざん機嫌を取った末に、ようやく出陣にこぎつける。
(一説には頼義から名符を差し出し、臣従したとすら言われる)
ここでも頼義のメンツは丸つぶれである。

清原氏が参戦したことで、規模の膨れ上がった官軍はトントン拍子で勝ち続けた。
一方、安倍軍は全てが裏目に出て追い詰められていく。
結局、安倍一族は討伐・捕縛・処刑されて滅亡。
経清も爆ギレした頼義によって鋸挽きの刑に処される。

幸せな晩年

東国で苦労した甲斐あってか、頼義の晩年はまぁまぁ報われたものだった。
伊予守という栄転(?)に加え、正四位上という公卿一歩手前まで昇進する。
やっとこ頼義のメンツは守られたようだが、
東国でこれ以上勢力を根付かせないように、という朝廷の思惑もあったと言われる。

伊予守の任期を終えると、出家して「滅罪生善」に励み、87歳で没した。

優れた武人なのは確かだが、将としての評価は悩むところである。
藤原経清平永衡の件がなければ、ここまで乱は長引かなかったともされるし、
勝てたのも大軍を擁する清原氏の参戦があってこそでもある。
とは言え、東北における河内源氏の存在感を高めたのは間違いない。

源頼信(河内源氏初代)

人物(清和源氏)

源頼信まとめ

・武勇に秀でた河内源氏の祖。
平忠常の乱を鎮圧。坂東平氏の多くが、この時に勢力下へと入る。
・兄の頼光が京で活動したのに対し、頼信は東国に拠点を置く。

基本データ

生年:968年 没年:1048年(享年:80歳)

主な家族

父:源満仲
兄弟:頼光(長兄)、頼親(次兄)、他
子:頼義(嫡男・長男)、頼清(次男)、他

人間関係

平忠常:元家人といわれる。それなりに信頼関係があった模様?

東国に根付いた河内源氏の祖

兄・頼光同様、藤原摂関家に仕えて勢力を伸ばし、
やがて河内国に土着して香炉峰の館という屋敷を建てた。
この地で嫡男・頼義や孫の義家、義綱、義光らが育ったと言われる。

平忠常の乱

頼信の功績において最も有名なのは、平忠常の乱を平定したことだろう。
関東で大乱が起きるのは、祖父・経基が平将門の乱をニアミスしてから約90年ぶりのこと。
頼信63歳の時である。

乱が起きた当初、朝廷は平直方を討伐軍として派遣した。
しかし士気の高い反乱軍を攻めあぐねた末に持久戦となり、3年が経過してしまう。
これを不満とした朝廷は、直方に替わって頼信に白羽の矢を立てる。

頼信と忠常は以前合戦に及び、忠常側が名符(名簿)を差し出して降伏している。
その後、忠常は頼信の家人となっている。(契約が一時的なものかどうかは不明)

頼信は念入りに準備を整えると、忠常の子を連れて関東に向かった。
そして忠常は頼信が派遣されたと知るや、戦うことなく即座に降伏している。
降伏の理由としては、主人である頼信への遠慮、長期戦で兵が疲弊した、
あるいは忠常自身の病のため等と言われている。

以降、坂東平氏は頼信の支配下に入り、
河内源氏が東国に根付く切欠となった。

今昔物語では、嫡男・頼義と共に馬盗人を退治するという、
中々かっこいい話がある。

鎮守府将軍河内源氏

今では河内源氏こそが武家源氏の嫡流と言われるが、
満仲の所領である摂津・多田は長兄・頼光が相続している。

一方、最強の武士に与えられる鎮守府将軍や、
祖父・経基より続く東国での活動は、頼信の系譜が受け継いだ。
更に前九年・後三年の役において子・頼義、孫・義家が活躍したことから、
武家源氏と言えば、河内源氏というイメージが世間に定着したのは間違いない。
(後世、頼朝が自分の直系こそ嫡流だと後付け主張した可能性もある)

安和の変

事件

安和の変まとめ

・冷泉帝の東宮を巡り、年長の為平親王を抑えて守平親王が選ばれる。
源満仲の密告から守平親王廃太子にする陰謀が露見。 これにより左大臣源高明が失脚。
・摂関の役職が常置されるようになり、藤原氏の勢力が安定する。

主な関係者たち

源高明:謀反の嫌疑で太宰府に左遷される。2年後に京へ帰還するも、政界には復帰できず。
藤原伊尹&兼家:高明を排除して更に勢力を強める。
源満仲:謀反を密告し、事件の切欠をつくる。 藤原千晴を排除し、昇進もできてウマウマ!
藤原千晴藤原秀郷の子で満仲のライバル。謀反に加担したとされ、流罪に。
・為平親王:優れた東宮候補。高明に近づきすぎたことから、藤原氏によって遠ざけられる。
・守平親王:為平親王の弟。藤原氏によって東宮へと立てられ、円融天皇となる。

源高明について

源高明醍醐天皇の皇子として生まれ、7歳の時に臣籍降下して源姓を名乗っている。
為平親王の父・村上天皇の兄にあたり、長じて故実に通じた朝廷の実力者となった。

高明は村上天皇の信頼が篤く、更にその後ろ盾として
舅・藤原師輔(伊尹、兼家の父)や、妻の姉で村上天皇の中宮となった安子がいた。
この安子は為平親王、守平親王の母親でもある。

醍醐天皇村上天皇は摂関を置かずに自ら親政を敷いた。(延喜・天暦の治)
高明も父や弟の天皇親政を支持していたという。

さらに彼は自分の娘を為平親王へと嫁がせた。
為平親王の伯父と舅を兼ねるという縁組だが、この強固すぎる結びつきが災いを招く。

安和の変における経緯

村上天皇崩御に伴い、冷泉天皇が即位した。
冷泉天皇は容姿端麗だが奇行が多く、病弱だった為、
帝の同母弟である為平親王と守平親王のどちらかを東宮に定めることとなる。

順当に考えると、年長かつ聡明とされた為平親王が選ばれるはずである。
ところが実際にその座についたのは守平親王だった。

藤原氏の陰謀

さて。冷泉天皇を補佐するべく、それまで長く置かれなかった関白が復活した。
就任したのは藤原氏の長老・藤原実頼である。
しかし彼は冷泉天皇外戚ではなく、その立場も盤石ではなかった。

もし為平親王が東宮になり、更に即位された場合は源高明外戚になる。
高明の権力が強まれば、摂関政治で政権を握ってきた藤原氏が脅かされるのは明白だった。
守平親王が東宮となったのは、高明を警戒する藤原氏の裏工作があったからとされる。

高明は失望した。
しかし、この頃には師輔はおろか、安子や村上天皇薨去している。
支援者を失い、藤原氏に目をつけられた彼は宮中で孤立しつつあった。

源満仲の密告

そんな中、満仲は守平親王廃太子とする謀反の密告をした。
密告の正しい内容は未だ不明で、そもそも源高明が関与したとする証拠もない。
一説には源高明が為平親王を東国に迎えて乱を起こし、皇位に就けようとした
というものがあるが、該当文献の信憑性は薄い。

冤罪同然の言いがかりだが、結果として高明は失脚。
検非違使に捕らえられ、息子と共に太宰府へと左遷された。
更に満仲と勢力を争っていた藤原千晴藤原秀郷の子)も隠岐へと流される。
この功績により、満仲は正五位下へと昇進した。

元々、満仲は高明派と目されていたが、
これを裏切って密告したのではないかと噂された。
蜻蛉日記」の作者である藤原兼家の妻(道綱の母)は
都の様子を述べつつ、源高明に同情している。
藤原兼家も変の首謀者ではないかと言われている。

摂関政治の全盛期、はじまる

安和の変藤原氏による最後の他氏排斥事件とされる。
摂関は常置の職とされ、これ以降の権力闘争は藤原摂関家内部での争いとなっていく。