歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

後三年の役

後三年の役まとめ

前九年の役で活躍した清原氏の内紛。当時の陸奥守・源義家が介入する。
清原真衡と家衡&清衡の兄弟喧嘩。真衡死後は家衡と清衡が争い、ドロドロなお家騒動に。
清原氏の血を引かない清衡が最終勝利者となり、奥州藤原氏を立てる。

主な関係者たち(名前が似てて困る……)

清原清衡藤原清衡):藤原経清の子。母が清原武貞と再婚し、清原氏の養子となる。
清原家衡:武貞の末子、清衡の異父弟。相続で揉めた末、清衡の家族を皆殺しにする外道。
清原真衡:武貞の嫡男、清衡の継兄。源氏や平氏のような名門武士団に憧れている。
清原成衡:真衡の養子だが、平氏の出。乱後、フェードアウトする。
吉彦秀武:武貞の妹を妻とする一族の重鎮。三兄弟の叔父。
清原武衡:武貞の弟で三兄弟の叔父にあたる。家衡を支持するも、敗死。
源義家陸奥守として清原氏の内紛に介入。朝廷からの恩賞はなし。

清原一族と清原清衡について

清原氏はそもそも出羽の俘囚長である。
前九年の役陸奥守・源頼義を助けて安倍氏を討伐し、奥六郡の新たな支配者となった。
この功によって清原武則鎮守府将軍に任じられている。

この時、処刑された藤原経清には妻子がいた。
妻は安倍頼時の娘だが、敵将だった武則の嫡男・武貞と再婚する。
経清との間に生まれた息子は処刑を免れ、武貞の養子として育てられることとなった。

彼は元服すると、清原清衡と名乗った。
清原氏とは血縁関係に無く、家督継承権からは最も遠い人物である。

清原武貞の息子たち

武貞には3人の息子がいた。
嫡男・真衡、武貞とは血の繋がらない次男・清衡、そして三男・家衡である。
しかも清衡と家衡は母が同じという、
昼ドラもびっくりのドロドロな兄弟関係が形成されていた。

真衡の養子問題

真衡には子がなかった為、海道小太郎という者を養子に迎え、成衡と名乗らせた。
さらにその妻として源頼義の娘を娶らせようと計画する。
ところが成衡は平氏の出身であり、清原氏の血縁ではなかった。

真衡が平氏から養子を取った理由として、
清原氏は俘囚、すなわち蝦夷の豪族階級に過ぎず、
朝廷における身分は決して高くなかったことが挙げられる。
そこで平氏や源氏といった帝系の血を入れることで、
家格の向上を狙ったというのが有力な説である。

ただし、それは武貞の実子である家衡が、
清原氏嫡流から外れてしまうことも意味していた。

俘囚とは?

陸奥・出羽などの蝦夷において、朝廷の支配に応じた者たちのことを指す。
生活様式も大きく異なり、農耕ではなく狩猟や武芸を得意とした。
地位は低いものの租税は免除され、交易で多くの富を築いた。
中でも安倍氏は俘囚長を称し、清原氏は俘囚主を称し、一大勢力を誇ったという。

そしてお家騒動へ

不穏な空気の中。
成衡の婚礼を祝うべく、真衡の叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)がやってきた。
彼は武貞の妹を妻としており、一族の長老格でもある。

しかし、当時の真衡は養子問題のほか、
源氏・平氏のような棟梁に権力が集中する武士団化を目論み、一族の家人化を推し進めていた。
ゆえに吉彦秀武含む一族との折り合いは、お世辞にもよろしくなかった。

大きな盃に贈り物の砂金を盛り、庭先で待ち続けた吉彦秀武だが、
真衡はちょうど奈良法師と碁に興じており、これを無視した。
ブチ切れた秀武は砂金を庭に撒き散らすと、出羽に帰ってしまった。

これを受けて、真衡は吉彦秀武討伐の兵を挙げる。
敵わぬと思った秀武は、真衡の弟である清衡と家衡に打診し共に挙兵するよう促した。

陸奥守・源義家の下向と介入

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清衡・家衡に背後を衝かれた真衡だが、兵を返すと二人はあっさり退いた。

その年の秋、新任の陸奥守が下ってきた。
かつて前九年の役で戦った、源頼義の嫡男・義家である。
義家は成衡の義兄(妻の兄)にあたることから、真衡は三日間に渡る歓待でこれを迎えた。

その後、吉彦秀武を討つべく真衡が再び出羽へと出陣すると、
案の定留守を狙って清衡・家衡は攻撃を仕掛けた。随分セコい弟たちである。
しかし真衡方の奮戦に加えて義家が真衡に加勢したことから、
清衡・家衡は返り討ちに遭い、降伏へと追い込まれる。

しかし事態は更に急展開する。
行軍中の真衡が病で急死したのだ。

真衡の急死と義家の裁定

主のいなくなった奥六郡を、義家は清衡と家衡で三郡ずつ分けるように定めた。

この裁定に家衡は憤慨した。
清衡はそもそも謀反人・経清の子であり、清原氏の者ではない。
正当な清原の血を引く自分が彼と同格というのは納得できなかった。
家衡は兵を率いて清衡の館を強襲し、その妻子を皆殺しにした。
そして清衡一人が辛うじて生き延びたのだった。
(清衡・家衡の母はこの時の粛清に巻き込まれたとも、逃げ延びたともされる)

清衡&義家VS家衡&武衡

f:id:historic_something:20170212000024j:plain家衡の行動は陸奥守たる義家のメンツを潰した。
義家は生き残った清衡と組んで家衡を攻めるが、
飢えと寒さもあって返り討ちにされてしまう。
さらに家衡を支援したのが、武貞の弟で叔父にあたる武衡である。
義家への勝利を武門の誉れと讃え、堅固なことで知られる金沢柵へと移るよう勧めた。

清衡と義家はさらに金沢柵を攻めるも、こちらもまた攻めあぐねた。
そこで吉彦秀武兵糧攻めを献策。
これにより柵内の士気は低下し、家衡・武衡は敗走した。

武衡は潜伏しているところを捕らえられて斬首された。
家衡は変装して逃亡するも、見破られて射殺。
かくして清原氏は滅亡した。

後三年の役、その後

清原氏の中で唯一残った清衡は、姓を藤原に戻して奥六郡の支配者となった。
さらに平泉へと居を移し、中尊寺の建立や宋との貿易に着手。
以後、奥州藤原氏は100年の栄華を誇ることとなる。

源義家陸奥守を解任され、恩賞も得られなかった。
自腹で部下の恩賞を捻出したことで、名を挙げたのが唯一の救いだろうか。
この時に育まれた藤原氏と源氏の不思議な因縁は、
清衡の孫・秀衡による義経の保護、そして頼朝による奥州征伐へと繋がっていく。