歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義家

源義家まとめ

前九年の役後三年の役で活躍し、源氏中興の祖と呼ばれる。通称、八幡太郎
・部下を大切にすることから人望高く、それ故に白河院や宮廷貴族から警戒される。
・弟や息子らの内紛に苦悩しつつ死去。以降、河内源氏は凋落の一途を辿る。

基本データ

生年:1039年
没年:1106年(享年:67歳)

主な家族

父:源頼義
兄弟:義綱(長弟)、義光(次弟)、他
子:義親(次男)、義忠(三男)、義国(四男)、他

人間関係

清原清衡:清原家の異分子。なんだかんだで協力することに。
清原家衡:俺の調停に文句をつけたクソ野郎。
源義綱:イラッとする上の弟。
源義親源義国:乱暴者の息子たち。育て方間違えたのかな。
源義忠:常識人で頼みの三男。
白河帝:煮ても焼いても食えない上司。

源氏中興の祖、東国を仕切る

摂関政治から院政へと移り変わる時代に台頭し、
足利尊氏源頼朝の先祖にあたる新興武士勢力の象徴。
前九年の役後三年の役という東国での大乱を鎮圧し、武家源氏の礎を築いた。

前九年の役

父・頼義に従って参戦。黄海の戦いでは弱冠13歳ながら、獅子奮迅の活躍をする。
戦後は出羽守に任じられるものの、その地は清原氏の本拠だった。
清原氏には前九年の折に平身低頭で参戦を依頼した経緯がある。
出羽における清原氏の影響力が強かったのか、あるいはナメられていたのか。
なかなか思うような任国経営はできなかったらしい。

ちなみに清原氏の一族からは、
「お前の親父が超土下座で頼み込んだから、参戦して差し上げたんだよwww
やっぱ貞任に勝てたのって、俺らのおかげじゃんwww河内源氏wwwプゲラwww 」
みたいなことを言われて激怒した記録も残っている。

白河天皇のSP

その後、犯罪者の追討や悪僧拿捕などに活躍。
白河帝が石清水八幡宮行幸する際、義家は弟・義綱と共に護衛を務めている。
その際、束帯という正式な服装ではなく、戦いやすい常服で武装して警護にあたったという。
当時の人は前例なきことと記しているが、
天皇直属の親衛隊という発想は、後に言う「北面の武士」の原型となっている。

後三年の役・前半

義家が44歳の時、因縁の陸奥守へと任じられた。
そして、それを狙ったようなタイミングで清原氏の間に内紛が起きる。

清原氏の長男・真衡とその養子・成衡に対し、
次男・清衡と三男・家衡、三兄弟の叔父にあたる吉彦秀武が対抗するという構図である。
成衡の妻が義家の妹だったこともあり、義家と国府は当初真衡側に付いた。
戦いは真衡の優位で進み、清衡と家衡はボコボコにされた末に降伏した。
ところが行軍中の真衡も病で急死してしまう。

養子のせいで相続がブラックになる清原氏

養子とは言え、成衡はそもそも平氏の出身で、清原氏嫡流からは遠い存在だった。
義家は支配者のいなくなった奥六郡を、
清衡と家衡で半分ずつに分けて統治せよ、というジャッジを下す。

ところがその清衡もまた養子であり、清原氏の血は全く引いていなかったのである。
(清衡の父は前九年の役で頼義に反旗を翻した「逆賊」藤原経清だ。)

後三年の役・後半

武貞の子で、れっきとした清原氏の血を引く家衡はこの裁定を不服とし、
清衡の館を強襲して妻子一族を皆殺しにした。
敗者の分際でつけ上がりやがって……と思ったかはさて置き、義家のメンツは丸潰れである。

不幸中の幸いか、清衡本人は辛うじて逃げ延びていた。
義家は清衡を助ける形で家衡方と戦うことになる。

戦いは攻城戦主体で進むものの、準備不足もあり中々攻略が進まない。
そこで兵糧攻めへと切り替え、数ヶ月後にはこれを敗走させた。
家衡は逃亡中に討ち取られ、残った清衡が本来の姓に戻って「奥州藤原氏」を立ち上げる。
清原氏はここに滅亡し、ようやく乱は終結した。
昔、清原氏に散々ナメられたのも、今となってはいい思い出である。

戦後処理と義家の名声

朝廷は後三年の役を義家の私闘と断じ、陸奥守を解任。恩賞も一切与えなかった。
さらに税金で戦費を賄い、陸奥の名産である砂金の納入が滞ったことも問題視された。
かくしてこれらを返済するまで、義家は新たな官職に就けなくなってしまう。

それでも部下への恩賞として、義家は自らの私財を彼らに分け与えた。
このことは東国における義家、ひいては源氏の名声を高めることとなったが、
同時に上級貴族たちの既得権益を脅かして警戒を招いた。
朝廷は義家に対する荘園の寄進を禁じ、河内源氏嫡流に対する抑圧策を取るようになる。

戦闘民族・河内源氏の相克

義家の後半生は気苦労の絶えないものだった。
その名声を恐れた朝廷からの嫌がらせに加え、上の弟はやたら反抗的、
さらに息子たちはあちこちで揉め事を起こすという有様である。

義綱の出世

義家が冷や飯を食わされる間、今度は弟・義綱が重用されるようになる。
義綱は後三年の役に参戦しておらず、この二人はどうも不仲だったと見られる。
河内の所領にて双方の郎党が諍いを起こした時は、互いに兵を構えるところまで行くものの、
関白・藤原師実の仲裁でなんとか事なきを得ている。

白河院のテコ入れ

後三年の役から10年後。当時の借金を返済した(とされる)義家は、
白河院の(強引な)推薦によって正四位下に昇進した。
さらに60歳を目前にしてようやく昇殿を許される。

しかし、この昇進は白河院による公卿への牽制という意図も強く、
当時の貴族たちからは反発を買ったとされる。
荘園の拡大によって、義家を代表とする武士勢力が力をつけつつあったものの、
軍事に携わる=「穢れている」という点で、下に見るという風習もまだまだ根強かった。

各地で暴れる息子たち

義家の長男・義宗は早世している。
次男・義親は対馬守に任じられたものの、乱暴狼藉のあまり告発されてしまう。
息子の召還命令を受けた義家は郎党を派遣するものの、
彼は説得どころか義親と一緒になって官吏を殺害するに至る。
業を煮やした朝廷は、遂に実父である義家に義親追討を命じた。

更に四男・義国は常陸国において、義家の次弟・義光と抗争になり、
両者にも捕縛命令が下されてしまう。

苦悩の中、病に倒れた義家は68歳で没する。
三男・義忠がその後を継ぐものの、彼はまだ若年だった。

義家の遺言

家督継承については義忠の「次」についても遺言されており、
義親の子・為義を指名したとされる。