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歴史人物の備忘録

ライトな歴史好きによる備忘録です

源義賢

源義賢まとめ

・為義の次男。次期棟梁として嘱望されつつ、京を中心に活動する。
・が、父の遺伝で出世できない。
・大蔵合戦にて甥・義平に攻められ、討ち取られる。

基本データ

生年:1126年?
没年:1155年(享年29歳)

主な家族

父:源為義
兄弟:義朝(長兄)、義広(長弟)、頼賢(次弟)、為朝(六弟)、行家(八弟)他
子:仲家(長男)、義仲(次男

人間関係

源義朝:俺が嫡男だもん!俺のが官位上だったんだもん!!
源義平:兄貴がいない関東なんてちょろいぜ→なんかやばいガキがいるゥ!?
源頼賢:可愛い弟。我が息子。
藤原頼長:アッー

京で育つ為義の後継者

長男である兄・義朝が無官のまま東国に下向したのに対し、
3歳下の義賢は父・為義の側で育てられ、東宮帯刀先生の官職を与えられる。
これは「とうぐうたちはきのせんじょう」と読み、皇太子を護衛する職を指す。
実は義朝を差し置いて後継者の立場にあったのではないかともされる。

父の欠点を受け継ぐ

将来を嘱望された義賢だったが、為義の遺伝子が効いたのだろうか。
犯罪者を匿うという、これまた父同様の地雷を踏んで官位を剥奪されている。
その後は能登で年貢未納事件を起こし、やっぱり罷免となった。

藤原頼長のおホモダチ

父同様、義賢も出世できないまま藤原摂関家に仕えた。
藤原氏の中でも苛烈な性格で知られる「悪左府」こと藤原頼長
彼の残した日記「台記」には、義賢が頼長の男色相手であったことが記されている。
イケメンだったのだろうか。

関東へ

兄・義朝が京に帰還して父と対立するようになると、
義賢は父の命を受けて、北関東へと下向。南関東に根付く兄の勢力を牽制にかかった。
彼は大蔵(今の埼玉県比企市)に拠点を据えると、着実に勢力を伸ばしていく。

……ように見えた。

悪源太襲来からの死

そんな義賢の動きに対し、鎌倉に残っていた義朝の長男・義平が動いた。
当時弱冠15歳ながら、義平は大蔵館を急襲。
義賢とその舅・秩父重隆を討ち取ってしまったのである。

大蔵合戦と呼ばれるこの事件は、
義朝と密接な関係にあった武蔵守・藤原信頼によって握り潰され、
都ではほとんど話題にならなかったという。
そして、甥・義平はこの合戦を機に「鎌倉悪源太」と呼ばれ、勇名を馳せることとなる。

この通り、兄・義朝とは不仲だった義賢だが、
為義の四男となる弟・頼賢とはとても仲がよく、父子の盟約を交わしたという。
義賢の死後。頼賢はその仇を討とうと信濃に下向し、
義朝と一色触発の危機に至るも、直前でこれを回避している。

義賢の息子たち

義賢の戦死後、京にいた長男・仲家は源頼政に保護され、その養子となる。
後に頼政以仁王を奉じて平家に反旗を翻した際は、それに従い討ち死にしたという。

そして、当時2歳だった次男・駒王丸は家臣の手で大蔵館から命からがら落ち延びる。
彼は後に木曽義仲と名乗り、義朝の息子たちと激闘を繰り広げることとなる。